イザヤ書53章1~12「苦難の僕によって」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 神が示される救い主とは
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が望んでおられる救いとは
◆聖書箇所…
イザヤ書の中で最も明確に救い主の役割と死に方が預言されている箇所がこの53章です。イザヤと主イエスがこの箇所をどのように語り、あるいは読んだのかを想像しながら客観的に味わうのも良いでしょう。イエス・キリストが歴史上登場するおよそ700年前にイザヤが託された救い主にまつわる預言を共に味わいたいと思います。
53:1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
この出だしはヨハネ福音書12章38節でも引用されています。「預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」」常識を覆す神が指し示す救い主キリストのたどる道に驚きを覚えながらイザヤは語ったことでしょう。
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
一説にはガリラヤ人というのは団子鼻で骨格が太い丸顔で色黒だったと言います。救い主もそのような人物だと言うことでしょうか。それとも、これは十字架にかけられた時のすでに様々な拷問にあった後の痛々しい主イエスの受難の姿を語っているのでしょうか。少なくとも、人々が普通想像するような神から遣わされた救い主の威厳も姿もしていないキリストが示されています。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
ここでは救い主は人々の悩みや苦しみが理解できる人物であるにも関わらず、人々に軽蔑され、見捨てられることが語られます。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
人々は神が遣わした救い主であることを理解せず、本当は人々の根源的な悩み、苦しみの解決のためであるにも関わらず、むしろ救い主が苦しむのを見て、それが神からのこらしめだと人々は思うとの預言です。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
次第にキリストが十字架にかけられて私たちのためにあがないの死を遂げていかれることが明確になっていきます。ここでは十字架に両手・両足が刺し貫かれ、打ち砕かれる主イエスの姿が見えて来ます。
53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
聖書では羊は罪の購いのために捧げられる動物として登場します。それを連想させつつ、救い主が果たす役割とは、罪のあがないなのだと明確にされていきます。しかも、新共同訳ではすべての罪が購われることが強調され、口語訳では「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。」
全人類すべてのあがないが強調されます。どちらとも大事な解釈だと思わされます。
53:7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。
この箇所は大祭司やピラトの前で裁判を受けた時の主イエスの姿が目に浮かんで来ます。
53:8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。
ここではキリストが裁判にかけられ、死刑を宣告されていくことが預言されています。口語訳では「彼は暴虐なさばきによって取り去られた。」とあり、より不当に裁判にかけられていく姿が描かれています。しかし、すべては神のご計画の中に最初からあることも明確にされています。
53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
キリストは無実であり、死刑にされるようないかなる罪も犯されなかったのに殺され、墓に葬られることが語られます。富める者と共にとは口語訳で「その塚は悪をなす者と共にあった。」と訳されている箇所であり、不正によって得た富を持つ者と解釈することができます。つまり、キリストが葬られるにはおよそ相応しくない最後を遂げ、丁重に葬られることもないことが預言されます。
53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。
ここからは希望が語られ始めます。キリストのあがないの死は自らの意志で受け入れていかれることやあがないの死は決して無駄にはならないことが預言されています。
53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。
キリストはあがないの死を遂げた後の無数の人々の救いを見ることとなることが12節にかけて語られて行きます。
53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。
キリストが命をかけて人々の罪のあがないのために執り成し祈り続けることにより、その受ける報いがどれだけ大きいものになるのかが語られます。主イエスが十字架にかけられた時に隣にいた死刑囚に見せた態度や自分の目の前にいた人々のために執り成し祈った場面が思い浮かびます。
神が遣わされる救い主とはどんな救い主なのか、それは私たちのあらゆる苦しみと悩みを引き受けて下さる救い主であり、何よりも私たち人類の罪をすべて引き受けてあがなって下さる救い主であることが53章には明確に語られています。そして、私たちの罪があがなわれるためにどれほどの代償が支払われるのかが示されます。この預言をイザヤが、そして主イエスが受け止め、それぞれ自分の役割を忠実に果たしたように、この預言の言葉が主イエス・キリストによって成就したことを知っている私たちもこの福音を担っていくものでありたいと思います。