イザヤ書42章1~9 「見よ、わたしの僕」
総合テーマ 神のみ言葉の確かさと力
・今月のみことばの学びの視点…その1 神が示される救い主とは
・今月のみことばの学びの視点…その2 神が望んでおられる救いとは
◆黙想のポイント
1. イザヤの預言から主イエス・キリストの働きを黙想しましょう。
2.2節・9節は何を意味するのでしょうか。
◆聖書箇所…
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
42:7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
イザヤ書40章から後半は、まるで旧約聖書に対する新約聖書のように内容が一転、神が遣わされる救い主とはどんな人物なのか、そして神がもたらす救いとはどのような救いなのかが語られて行きます。今回とりあげる42章は言わば旧約聖書の中にある福音書と言ったところでしょうか。それではイザヤによる福音書42章とはどんな福音なのか、共に御言葉に聞いていきましょう。
42:1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
神が遣わす救い主はどんな人物でどんな役割を果たして行くのでしょうか。イザヤを通して神は語られます。1節にはその人物がどういう存在なのかを端的に現わす言葉が登場します。聖書教育誌にも言及されている通り、それはしばしば聖書に登場する「預言者」や「祭司」や「王」などではなく「神の…わたしの僕=キリスト=救い主」だということです。神が遣わす救い主を一言で表現するとするならば、それは「僕」という言葉で現わすのがふさわしいというのです。預言者・祭司・王という立場の人は人の上に立つ指導的な立場の人物を指すのが一般的です。これに対して僕はだれかの下で仕える働きをする人物だと言えます。僕に求められる最大の責任とは、その僕の主人が指示したことを忠実に実行に移すことだと言えます。神が遣わすキリストの最大の特徴のひとつは、主なる神の御心に対して忠実な人物であることが強調されていると考えられます。
1節後半「わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。
この忠実な「僕」こそ神が指示し、喜ばれる人物だと神は主張し、この「僕」にこそ注目せよと言われるのです。このような「僕」にこそ神の霊である聖霊が留まり続けます。そしてその人物は国々の裁きを導き出す(口語訳では=道を示す、新改訳では=公儀をもたらす)、つまりこの「僕」は神の基準によって裁き(信仰基準・生きる道)を世界にもたらすものとなることが示されています。この預言は従って、イエス・キリストにこそ当てはまる預言だと言えます。
42:2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
この人物は預言者や祭司たちが公の場で声を張り上げて人々に語るのとはおよそ違う仕方でその役割を果たしていくことも預言されています。この言葉には少し違和感を覚える人もいるのではないでしょうか。イエスは山上の説教や大勢の群衆を前に御言葉を語られる時、大声を出されていたのではないかと言うことです。この預言の方が正しいとするならば、主イエスは当時の預言者たちほどには声を張り上げて話さなかったものと考えられます。…また、私個人はこの預言はむしろイエス・キリストが召天された後、聖霊降臨によって今日まで全世界の人々に語り続けておられる聖霊(主イエス・キリストの霊)の声を指示しているとも考えています。
42:3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。
この「僕」はまた、すでに傷つき切っている人や今にも一切の希望を失いかねないような状況の中にある人を救い、そこから立ちあがることができるようにその根本問題を解決して下さることが語られます。
42:4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
その「僕」の裁き(=神の正しい道を指し示す教え)は決して衰えることも、損なわれることもなく、世の終わり(この地に裁きを置くとき)まで継続し、島々=つまり世界の諸大陸にまでその影響が及ぶことが示唆されています。
42:5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ/地とそこに生ずるものを繰り広げ/その上に住む人々に息を与え/そこを歩く者に霊を与えられる。
天地創造の主こそ、人間に主の霊(聖霊)を与えられるお方であることが再度強調されています。私たちに聖霊に対する認識を強めるようにとの言葉でしょうか。
42:6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。
キリストは私たちを神との契約締結に導き、世界中の人の希望として立てられることが語られます。
42:7 見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
イエス・キリストは確かに目に障害を持つ人々を癒されました。しかし、ここで語られているのは文脈から考えるとむしろ私たちの霊魂や内面的な癒しのことだと考えられます。つまり、これまで神の御心を正しく理解することも、信じることもできなかった者たちが神の真理に目が開かれるようになること。あらゆる罪と偏見と欲望に捕われていた人々がその罪のくさりから解き放たれること。そして憎しみと絶望の中で心に闇が巣食っている人々をそこから救い出して下さること。そのような救い主として「僕」は忠実にその使命を果たしていくことが語られます。
42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さず/わたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
この聖書の神こそ真に存在する主なる神であり、この聖書の神はものを言うことができない偶像、そして何も約束しない偶像とは違い、必ず預言したことを実現してみせるとの威厳が感じられます。
42:9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
「見よ、初めのことは成就した」とは何を意味するのか。恐らくイザヤの時代までに起こることとして神が語られたすべての聖書の預言の言葉をひっくるめた内容のことだと考えられます。そして、今イザヤが耳にし、語るように授けられている新たな人類への救い主の派遣こそ「新しいこと」であり、主イエス・キリストがこの世に生まれてくることによって実現する遥か以前に神はこのことを預言し、計画されていることが語られているのがイザヤ書です。
イザヤのように神の救い主派遣の預言を具体的に聞くことが赦された預言者はいたでしょうか。イザヤはどのような気持ちでこの預言の言葉を語ったのでしょうか。今、イザヤが託された救い主派遣の預言がみごとに実現してしまった時代に生きる私たちは、なおさら喜びと自信を持って聖書の神の言葉を信じ、神が遣わされた世界の「僕」の模範に聞き従って生きることができるのではないでしょうか。主の言葉の確かさに感謝したいと思います。
課題)イザヤは9節で新たなことをされる主なる神のことを告げ、神が遣わされる救い主は神の忠実な僕であり、神の霊に満たされた人物であることが語られます。その主イエスご自身がヨハネ13章34節で「あなたがたに新しい戒めを与える。…」と言われました。この新しい戒めとは、まさに旧約聖書に対する新約聖書との違いであり、9節で告げられる「新しいこと」と深い関係があるものと思われます。いったいイエス・キリストの到来によってそれまでの旧約聖書の教え・福音・時代と比べて何が新しくなるのでしょうか。主イエスが言われる新しい戒めとは何でしょうか。来る主日礼拝説教でその核心に近づいていければと思います。