マルコによる福音書 9:42-50
本日の箇所は、主イエスが様々な機会に教えられた言葉をひとまとめに編集した部分であると考えられる。 前後の物語との関係からというよりも、ここで主イエスが語ろうとされている事柄、すなわち「命にあずかる」「神の国に入る」というテーマに注目して、内容を理解したい。
永遠の「命にあずかる」(43、45節)とは、「神を知り、主イエスを知ること」「神との交わりに生きること」である。主イエスご自身は「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語っておられる(ヨハネ17:3)。「知る」とは「交わりを持つ」ことであり、主イエスに結ばれて生きることの大切さが語られている箇所であるといえる。
反対に、「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる」(42節)とは、「神との交わりを失う/失わせる」ことである。「小さな者の一人」とは「主イエスを信じ従うすべての信仰者」を指す。いずれの信仰者にとっても、その信仰生活には常に「つまずき」「誘惑」が伴う。信仰を奪い神との交わりから引き離そうとする「試練」「誘惑」は信仰者に内から外から襲いかかる。日本でもかつて、「キリシタン」たちが捕えられ信仰を捨てるよう強要される時代があった。現代はそのような迫害の時代ではないが、やはり別の形で我々の信仰を失わせようとするものが外側にも内側にも存在する。礼拝と教会生活を遠ざけるような誘惑や習慣がある。もしそのようなものがあるとするならば、それらは「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げこまれてしまう方がはるかによい」(42節)。何よりも永遠の命にあずかり神との交わりに生かされることが大切なのだから、それを妨げるものは「切り捨ててしまいなさい」(43,45節)「えぐり出しなさい」(47節)と主イエスは言われるのである。これは恐ろしい表現であるが、「文字通り、このようにせよ」という教えであると捉える必要はない。「神との交わりを妨げるもの、信仰を誘惑するものは捨てなさい」という勧めは、脅しではなく、むしろ避けられない試練や誘惑の中でなおよきものへ向かわせる励ましの呼び掛け、「永遠の命にあずかること、神との交わりを何より大事にする生き方」への促しなのである。
「小さな者の一人」(42節)という言葉には、更に「信仰の弱い者」という意味が込められている。パウロもその書簡において「信仰の弱い人を受け入れなさい」(ローマ14:1)と勧めているが、「信仰」とはある意味「成長していくもの」であり、現段階において信仰の理解の仕方や信仰生活において十分でない者たちが当然いる。しかし、そのように信仰が未熟な者たちを「受け入れる」こと、「つまずかせない配慮」が求められているのである。日本でも主イエスを信じ、キリスト者になる人はかなりの数与えられているが、同時に信仰から離れていく人も非常に多い。概して、信仰から離れていく人は入信後3年以内に離れるケースが多い。しかし、信仰生活を10年以上重ねた人が信仰から離れるケースは少ない。信仰生活の長短でその良し悪しを語ることはできないが、一方でやはり「信仰生活の長さ」はその人に与えられた祝福であり、その歩みの中で信仰の成長が与えられているということができる。
続けて「人は皆、火で塩味を付けられる」(49節)とある。主イエスは「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と語られたが、その「あなたがた」とは「主イエスを信じ従う者」であり、「主イエスに結ばれ福音の恵みにあずかって生きる」者である。そして、「火」という言葉は聖書の中でしばしば「試練」「苦しみ」という意味で用いられている(cf. Ⅰペテロ1:7「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりもはるかに尊くて、・・・」)。日本語の聖書で「試練」「誘惑」と訳し分けられている言葉は原語が同一であるが、信仰生活には「試練」「誘惑」が存在する。しかしそれらは受け止め方によって「信仰を鍛える」ものとなる。「試練」「誘惑」の苦しみを通して信仰が強められ、主イエスとの結びつきが強められていく。「福音」という「塩」を絶えず頂いていなければ、「福音」という「塩」によって味付けされていないなら、我々は「地の塩」として「福音に生きる」という証しをすることができない。主イエスは「自分自身の内に塩を持ちなさい」(50節)と命じてくださったが、この「塩」は常に新たに頂き続けなければならないものである。そして日々新たに「福音」という「塩」にあずかり、その恵みによって生きることで、「互いに平和に過ごしなさい」(50節)という主イエスの求めに応えることをゆるされるのである。