マルコによる福音書6:30-44
「使徒たち」(30節)、すなわち主イエスが福音宣教のために遣わされた者たちは、「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(30節)。彼らは決して「自分(たち)がこれだけの事を為した」ということではなく、「主イエスの御名が伝えられた時に、主イエスによって救われ癒される人々がおこされた」ということを大切に報告したのである。「働きの報告」の場として、我々の教会は「総会」を持っている。その所で教会員は一堂に会し、過ぎ去った一年間の働きを報告し合い、ひとつひとつの事を通して「神がどのようにしてくださったか」を共に覚え、神を崇め感謝し合う。建設的な反省や展望を出し合うことは大切であるが、「総会」は決して互いの働きの不備を目くじら立てて追及し合う場ではないのである。
主イエスは働きから戻った弟子たちに「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた(31節)。主イエスは我々の故障しやすい身体、休息の必要をご存じである。「人里離れた所」とは、「神にのみ心を向けることができる場所」であり、その意味で主イエスの与えてくださる休息は、肉体のみに留まるものではない。また我々は主の日ごとに「神の前に出て休む」礼拝の時を与えられている。礼拝に招かれた者は、手のわざを中断して神の前で休み、リフレッシュされて、新たな一週間へと遣わされていくのである。
しかし弟子たちの休息はこの時かなわなかった。「多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ」てきたからである(33節)。ここで主イエスを追いかけてきた人々とは、どのような人々であろうか。この時代、「病気をする」「貧しい」「仕事が無い」などということは、「神の祝福から漏れる」ことであるというユダヤ教的な通念が一般に存在した。そして、そのように「神の祝福から漏れた」とされていた人々は、今まで聞いてきたことと違う主イエスの言葉に出会い、慰めや希望を受け、切なる求めに突き動かされて主イエスのところに集まってきたのである。
主イエスはそのような人々を見つめ、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」まれた(34節)。この「憐れむ」とは、「腸をちぎらせるほどに」というニュアンスを持つ言葉であり、それはまるで、大切な我が子が重病に罹って苦しんでいる時、「できることなら自分が代わってあげたい」と身悶える親の姿のようである。羊飼いは多くの羊を世話するが、一匹一匹が大切な存在であり、それぞれに名前を付けて我が子のように面倒をみる。羊はか弱い動物であり、迷子になりやすい。羊飼いがそばにいて導いてくれるからこそ、羊は羊飼いに寄り添い、初めて安心して暮らすことができるのである。
主イエスはご自身のもとに集まってきた人々の「依り頼むべきものを持っていない」状態を深く憐れまれ、言葉をもって「いろいろと教え始められた」(34節)。主イエスはどのような教えを彼らに語られたのであろうか。例えば、「羊飼いのたとえ」(ヨハネ10:7−18)にあるように、「わたしこそ羊飼い、わたしに従いなさい」と教えられたのかも知れない。
そのうち、日が暮れてきたので弟子たちは夕食の心配をしなければならなくなった。そして、「人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」と主イエスに進言した(36節)。当時、このような状況下で便利に食料を購入できたとは考えにくい。むしろ、当時は日々の糧を必要とし訪ねてきた旅人をもてなし宿泊すらさせる互助制度的な習慣があったため、弟子たちは現実的なこととしてこのような提案をしたのであろう。
しかし、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と弟子たちに命じられた(37節)。マルコ、ルカ、ヨハネはこの場面に「男が五千人」いたと記している(マルコ6:44、ルカ9:14、ヨハネ6:10)。これは「女性や子どもは数に入れない」という当時の発想から来た記述かも知れないし(マタイは「女と子供を別にして、男が五千人(14:21)」と記している)、あるいは「男」だけではなくその場にいた「人」が五千人であったという解釈もあるという。いずれにせよ、弟子たちがその夕食を世話するのに大変な大人数であったことには違いない。それを賄うためには「二百デナリオン」が必要であった(37節)。「一デナリオン」は「当時の労働者の平均的日当」と考えられている。
しかし弟子たちの手元には「五つのパン」「二匹の魚」しかなかった(38節)。当時の「パン」について「ヨハネによる福音書」は「大麦のパン」(ヨハネ6:9、13)と伝えているが、それは貧しい人々が食べる、平べったいお皿のように大きめに焼いたパンであった。そして「魚」は「塩漬けの魚」であった。主イエスはそれらを持ってこさせ、人々に分配させるために次から次へと弟子たちに手渡された。そして「すべての人が食べて満腹した」(42節)。
これは読む者に「こんなことが起こるのだろうか」と思わせるような「奇跡」の物語である。「主イエスが大勢の人々に食事を与えた」という記事は4つの福音書全てに収録されていることからしても、非常に印象深い出来事として人々の記憶に焼きついた事件だったのであろう。「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて」(41節)という主イエスの所作は「最後の晩餐」の場面を想起させる。福音書記者たちはこの場面にこの所作を取り入れることによって、主イエスが与えてくださるパンが「肉体の糧」だけではなく、霊的な苦しみと貧しさを満たす「命のパン」(ヨハネ6:35、48)「霊のパン」であるということを読者に示している。主イエスは生活に必要なパンについて配慮してくださるだけではなく、魂を養い生かす「神の言葉」というパンを分け与えてくださる方なのである。
主イエスが分け与えられた「パン」、それは主イエスの心を示す「しるし」であった。福音書は主イエスによる「奇跡」を、ある事柄を指差す「しるし」「象徴」として語る。読者である我々は、その「奇跡」における事象にのみ目を奪われるのではなく、その「奇跡」の背後にあり主イエスが指し示そうとしておられる事柄に目を向けなければならない。迷い苦しむ人々を憐れみ、神の言葉を語ることにより彼らを生かそうとした主イエスを指し示す出来事こそ、「十字架」である。我々に霊的な命を与えるために、主イエスは十字架でご自分の命を裂いてくださった。我々を愛し、神のもとに連れ戻すために、主イエスはご自分の命をささげ尽くされたのである。