マルコによる福音書5章1−20節
今日の物語の場面である「ゲラサ人の地方」(1節)はユダヤ人にとっては「異邦の地」であった。主イエスはそこで救いのわざを行うために、弟子たちを伴い湖を渡って出かけられた。するとすぐに「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやってきた」(2節)。この時代の地域の墓場は、岩場に横穴をあけ、そこにそのまま遺体を納めるような形態で作られていた。墓場は暗く荒涼とした穴場であり、人里離れた場所にあるのが普通であった。この「汚れた霊に取りつかれた人」はここに追いやられたのかもしれない。昼夜問わず「叫んだり、石で自分をうちたたいたり」(5節)という異常な行動をするこの人は、「足枷や鎖」(4節)で縛られ、様々な意味で行動を束縛されていた。しかしこの人が「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった」(4節)という状況にあった。彼は恐らく他人に危害を与える人物であったため、このように縛られ人里離れた墓場に追いやられたのであろうが、自分自身を制御できず、自分自身をも傷つける状態にあった。聖書はそれを「悪霊に取りつかれた」「汚れた霊い取りつかれた」(2節)と表現する。彼は対人関係を築けないだけでなく、自分自身とも折り合いをつけることができなかった。これは単なる古代の話ではなく、今日にも通じる話である。現代社会は競争の社会であり、そこでは利益追求が優先され、人はその中で評価差別されていく。そのような中で他人とも自分とも折り合えなくなり、その思いが高じると他殺や自殺の念慮が生じてくる。心が病んでいく状況は、昔も今も変わることなく存在する。誰にでもそのような、自分の手に負えないような思いが内在しているのである。
彼は「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」た(6節)。この人がやはり心の中に救いを求め、心に乾きを持っていたことが分かる。しかし彼は同時に主イエスに「かまわないでくれ」(7節)と叫び、心を開こうとしない姿をも見せる。自分自身に絶望しながらその自分自身に執着する人間の姿である。デンマークの哲学者・神学者セーレン・キェルケゴールは著書『死に至る病』(1849年)の中で、「人間の絶望の姿」というものをテーマにした。
主イエスは「汚れた霊、この人から出ていけ」(8節)と言われた。主イエスは、この人がこのような状況にあるのは「汚れた霊に取りつかれているから」であると見なし、その「汚れた霊」を追い出す権威ある方として言葉を発せられた。この主イエスの力強い言葉の前に、彼はついに自分自身を開いたのではなかろうか。
この「汚れた霊」は名を「レギオン」(9節)と名乗った。これは「大勢」「大群」を意味する言葉である。自分の中にいろいろなものが入り込むとき、我々はそれらの声、言葉に振り回され、自分自身の立ち位置を見失うような状況に追い込まれるのである。この「レギオン」は「自分たちをこの地方から追い出さないように」(10節)願ったという。これは古代的な表現ではあるものの、この人に取りついたいろいろな声や思想がなかなか出ていかないことの表現であると言える。
そこで「レギオン」はそのあたりの山で飼育されていた「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」(12節)と主イエスに願った。主イエスがそれをお許しになったので、「レギオン」は「二千匹ほどの豚の群れ」に乗り移り、豚の大群は「湖になだれ込み」「次々とおぼれ死んだ」(13節)。主イエスの癒しのわざには大きな犠牲が伴った。 主イエスは我々を「正気の人間」として回復するために大きな犠牲を払われるということの象徴的表現である。またそのことは、その先にある「十字架の死」という最大の犠牲をも暗示している。「レギオンに取りつかれていた人」は「服を着、正気になって座って」いた(15節)。主イエスは我々を「正気」にして下さる。それは「神の創造の秩序の回復」というわざである。我々は「神に向き合う人間」「神と関わりを持つ人間」として創造され、そこから「他者との関係」も創造されていく。主イエスはそのような失われた「人間性」を回復してくださる方である。
確かにここでも「大きな犠牲」が払われた。ことの次第を知った現地の人々が「イエスにその地方から出て行ってもらいたい」(18節)と言いだすほどの大きな犠牲であった。現地の人々にとっては「一人の人の救いと回復」より「豚二千匹」という財産の方が大切だったのである。現在、我々が直面している「原発問題」にも通ずるような話である。生活をより向上させるために科学が発達し、その最先端に原子力が開発された。危険性はあるが「安全だ」と言われ、危惧しながらも「制御できる」という安全神話を受け入れ、原子力の恩恵を享受してきた、「人間のいのち」より「生活のひたすらなる向上」だけを願う我々に重なるものがある。
主イエスは「魔術」ではなく「対話」によって「汚れた霊」を追い出し、一人の人を癒し回復させた。「主イエスの言葉」がその霊的な力と共に我々を癒して下さるのである。「主イエスに出会う」とは「主イエスの言葉に出会う」ことである(cf. マタイ8:16)。「主イエスの言葉」に出会った者は、その圧倒されるような言葉に従っていく中で、回復され救われていく。「信仰」とは、「荘厳な場所で心が洗われる思いをする」などという感情的なものではなく、「主イエスの言葉の前に伏する」ことであり、そこで変えられ救われることである。
回復されたこの人は主イエスに付き従っていきたいと願ったが、主イエスはそれをお許しにならず、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない」(19節)と命じられた。この人は自分を制御できず苦しんでいたが、主イエスとの出会いと言葉で癒された。そこに主イエスの憐れみがあった。彼は、主イエスの言葉に従い、その恵みを証しするために帰って行った。