マルコによる福音書 2:13-17
主イエスは「再び湖のほとりに出て行かれた」(13節)。前後の文脈から推測するに、そこはガリラヤの湖のほとりの町カファルナウムであろう。
主イエスはそこで人々に「教えられた」(13節)。同様の記事が福音書にしばしば登場する。「奇跡のわざ」もなさったが、また主イエスは「教えられた」のである。その「教え」とは「天国」「神の国」についてのものであった。そのメッセージから慰めや喜びを受けた人々は、主イエスの教えを「何回も聞きたい」と思ったことであろう。
主イエスは弟子たちと共にカファルナウムの町を通られた。そして「通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っている」ところをご覧になった(14節)。「収税所」とは文字通り「税金を徴収する所」である。カファルナウムは国境の町であり、人々がそこを通過する際には持物を調べられ、いわゆる「関税」「輸出入税」が課税された。徴税の主体はローマ政府であったが、実際に働いているのはローマ政府から雇用されていた者たちであった。今日のように正式な課税の基準はなかったと思われる。彼らはローマ政府に納める金額より多めに、適当に税金をふっかけ、余った分を自分の懐に入るシステムを持っていた。そのようなわけで徴税人は「ローマ政府の手先」として、とりわけローマの支配を喜ばないユダヤ人たちの中で蔑みの目で見られ、交際を潔しとされなかった。
ところが主イエスは徴税人レビを見て「わたしに従いなさい」と呼びかけられた(14節)。すると「彼は立ち上がってイエスに従った」(14節)。そしてレビは自宅に主イエスを招き、食卓を共に囲む。そこには様々な人が同席していた。「罪人」(15節)とは「多くのユダヤ人から≪罪人≫と呼ばれていた人」のことである。ユダヤ人であるにも関わらず律法を守らない・守れない人々は「罪人」と呼ばれたのである。例えば、「安息日」をめぐる主イエスとファリサイ派の人々との問答(マルコ2:23—28他)からも分かるように、ユダヤ人たちは「安息日厳守」ということを口やかましく言った。「安息日には仕事を何もしないで、とにかく礼拝の日にするべきだ」と言われるものの、ユダヤ人の中にもそれを守れない人たちがいた。例えば、羊飼い、日雇労働者、船乗りなどは安息日だからといって仕事の手を休めるわけにはいかない。また、差別的な意味では肉屋や革なめし業者、売春婦など「律法から外れている者」と見なされた人々へ投げかけられた蔑称が「罪人」であった。「実に大勢の人がいて」(15節)という文章は、『口語訳聖書』では「こんな人たちが大勢いて」と訳されている。ユダヤ社会の中で除け者になっている人々がこんなにも大勢いたというのである。「罪人」と同様の蔑称として「アム・ハ・アレツ」(地の民)というのがある。一般社会からはみ出た者とされ、棄てられた民、そのような人々と主イエスは共に食事をした。
その様子を見て、ファリサイ派の律法学者は主イエスの振る舞いを非難した。今も昔も、「共に食事をする」のは「仲の良さ」のあらわれである。そして主イエスはユダヤの一般社会で蔑まれ、「あんな者にはなりたくないものだ」と思われているような人々と共に食事をされた。「あのイエスという男は≪自分は神から来た者だ≫などと称しているにもかかわらず、なぜ、神の律法を守らない、神から棄てられたような者たちと食事をするのか」と律法学者は問うたのである。「ファリサイ」とは「分ける」「清め分かつ」という意味の言葉である。彼らは「自分たちこそ神の律法を忠実に守る者であり、そうでない連中とは違うのだ」という自らの立ち位置をはっきりさせるために「ファリサイ派」と名乗った。ファリサイ派の人々が主イエスを批判する思いの中には、「あの男は本当に神から来た者なのか、自分たちのように教える資格を持つ者なのか」というニュアンスが感じられる。その前提には「自分たちは神の前に正しい人間であり、またそうあるために努力を積んできた」という確信がある。「自分は正しい」という確信が彼らの生きる根拠であり、同時にその「自分は正しい」という確信が「あいつは間違っている」という非難や裁きの根拠となっているのである。
主イエスが語られた別のたとえ(ルカ18:9-14「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ)にも、そのような姿が浮き彫りになっている。ファリサイ派の人は「わたしは≪罪人≫と呼ばれるような連中とは違う、ああはなりたくない、あのような人間でないことを感謝する」と心の中で祈った。もちろん、この人は律法に沿って生きるために相当の努力を重ねてきたことであろう。しかし、そこに他者を蔑み、差別し、軽蔑する思いが入り、「自分たちこそは正しい」といううぬぼれ、傲慢が生じていた。しかしファリサイ派の人々の内実はどうであろうか。真に神と律法の前に自らの「正しさ」を主張できる者など存在するのであろうか。存在するとすれば、その人こそ「偽善者」である。主イエスは彼らの「偽善」を熱心に鋭く指摘された。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたちは不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23:27-28)。しかし彼らは「自分たちこそ正しい」と思えば思うほど、主イエスの言葉の前に反省するのではなく、主イエスへの憎悪を募らせるようになっていった。
主イエスは「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(16節)というファリサイ派の律法学者の問いに対して「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)と答えられた。誰しも「自分は病気だな」と思う者は自ら医者に行くが、「自分は病気ではない、大丈夫だ」と思えば、「医者に行く必要などない」と思う。「丈夫な人」は「自分は自分の力で生きているのだ、自分で努力して正しい生き方をしているのだ」と自負する者である。自分の考えで思い通りに生きようとし、学問を積みそれなりに働いて富や社会における権力を身に付けた人々である。彼らは「神、神」と言いながら人間の力を頼りとして生きている。「丈夫な人」「正しい人」というのは主イエスの「皮肉」である。「自分は正しい」と自負し、他者を蔑み傲慢になり、その結果、他者を傷つけ苦しめている者は実は「病人」なのである。
そしてここで主イエスが語られる「病人」「罪人」とは、自分が「人を傷つけ、どこかで見下す」存在であるということをとりわけ律法の前で、み言葉の光に照らし出されたときに気付かされ、「神から遠く離れ、魂が罪に冒されている」自分に苦しむ者のことである。そのように「罪に冒された病人」であることに気付かされた者は、切実な思いで神の赦しといやし、神によって生かされることを求めて、魂の真の医者である主イエスのところにやってくる。主イエスは「そのような者たちのために、わたしは来たのだ」と言ってくださる。
主イエスこそ、真に罪の赦しと解放を与え、「わたしに従いなさい」と命じてくださる方である。主イエスに従って生きて行く時、我々は赦され、助けられながら生きて行くことができる。レビが主イエスに「わたしに従いなさい」と命じられそれに従った時、レビはそのまま徴税人として生き続けたと思われる。「主イエスに従った」からといって、今までの仕事や仲間から飛び出したのではなく、自分の置かれた場で「弟子」となり、自分たちの仲間のところに主イエスを招き入れたのである。主イエスは「あなたは徴税人であってはならない、もっと立派な人間にならなければならない、もっと立派になってからわたしに従いなさい」とおっしゃることはなかった。むしろ「そのままで従ってきなさい」とレビを招いた。「悔い改める」とは「これまでの罪を後悔し、≪二度としない≫と決心する」ことではない。「自分の向きを主イエスの方向に変える」ことこそ「悔い改め」である。主イエスは「真人間になってからわたしのところに来なさい」とおっしゃることなく、罪ある者をそのままで受け入れてくださる。そしてそのままで主イエスに従っていく歩みの中で、我々は主イエスにいやされていくのである。