列王記下22:14-20
先週の学びの続きであるが、信仰の人であった南ユダ王ヨシヤは、発見された「律法の書」(22:8)を読み、悔い改め、臣下たちを「女預言者フルダ」(22:14)のところへ遣わした。「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ね」させるためであった(22:13)。
ここで発見されたとされる「律法の書」は「申命記」の一部であろうと推測される。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(申5:7)など、「〜してはならない」という語がたびたびあらわれるが、これは「〜するはずがない」というニュアンスを持つ表現である。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:4)と神はイスラエルの民に命じた。「愛する」とは「関係を持つ」ことである。神との正しい関係の中にありつづけること、このことこそ神が律法を通してイスラエルの民に命じ、また求めたことである。神はイスラエルが強く大きく頼りある存在であったからご自分の民として選び出されたのではない。むしろ「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と語られている(申7:7)。彼らはただ神の愛のゆえに選ばれた民であった。
「申命記」には「王に関する規定」という項が設けられている(申17:14−20)。イスラエルの民は奴隷状態におかれていたエジプトを脱出し、「約束の地」カナンに入った。最初はただ神の律法に従って生きる信仰の民であった彼らは、やがて定住生活の中で近隣諸国との摩擦を経験するようになる。その時、彼らは「自分たちの王」を求めるようになった(申7:14)。そこで神は「必ず、あなたの神、主が選ばれる者を王としなさい」と命じた(申7:15)。その後、預言者を通して神の選びを受け、油を注がれイスラエルの王とされていったが、興味深いことにソロモンに関して聖書は「神が選んだ」と語らない。ダビデの神殿建設の願いがソロモンの治世下で成就し、ソロモン自身も信仰を言い表している。しかしソロモンはイスラエル王国の軍備を増強し、多くの妻を娶った王であった。「王は馬を増やしてはならない」(申7:16)、「王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」(申7:17)という神の戒めを記す「申命記」はソロモンに対して批判的な立場にあると言えよう。
ソロモン以降の王たちは、他国と同様に王権を肥大化・絶対化させていった。アハブ王の時代には隣国フェニキヤと同盟を結んだばかりではなく、その王の娘を妻に迎え、イスラエルにバアル宗教を導入した。ヒゼキヤ王やヨシヤ王のような信仰深い王は例外的な存在であり、多くの王たちは主なる神に背き、偶像礼拝に走った。「偶像」とは「人間の手で刻んだもの」だけを意味しない。「人間の欲望をかなえさせるもの」が我々にとっての「偶像」なのである。
イスラエルには、長い間偶像礼拝が蔓延していた。「王に関する規定」はリーダーである王に対し、民に先立って律法を読み信仰に立たなければならないと命じる(申17:18−19)。王は決して民の上に立つものではなく、神の前では民と同列にあるということを理解し神に従うならば、その王は長く保たれるのである(申17:20)。
さて、女預言者フルダは神のイスラエルに対する災いの言葉を語った(列下22:15−17)。しかし神はヨシヤ王が国全体のために悔い改める姿を見ておられたため、フルダは続けてヨシヤ王がそれらの災いを見ることなく安らかに生涯を終えることをも告げた(列下22:18−20)。ヨシヤ王はメギドの戦いで命を落とした。その意味では決して安らかな最期を迎えたとは言えない。ここでの「安らかに」とは、ヨシヤ王がその後のエルサレム陥落やバビロン捕囚を見ることがなかったという意味でとらえられる。
神の民であるイスラエルの共同体に対する願いと戒めが「申命記」に示されている。そして現代の教会はやはり「神の民」であり、「新しいイスラエル」であると表現される。我々も「神に仕える」とはどのようなことであるか、「申命記」から教えられるのである。