列王記下20:12-20
今週も引き続き、南ユダの王ヒゼキヤの物語を読んでいる。『列王記』その名のごとく「王の列伝」であるが、そこに登場する王の多くは「悪い王」として描かれている。彼らは主なる神に対し、様々に不信仰であった。そのような王たちの中でダビデ、ヒゼキヤ、ヨシヤは「信仰に立つ王」として概ね肯定的に評価されている。本日の箇所はヒゼキヤ王の最後の記事である。
紀元前8世紀頃は強国アッシリアが覇権を握っていた時代である。バビロンはまだこの頃、それほど力を持っている国ではなかったが、アッシリアに対抗するために同盟関係を結ぼうと近隣諸国に接近していた。一方、預言者イザヤは「同盟」ということに対して否定的であり、常に「神にのみ依り頼め」と語っていた。
「そのころ、バビロンの王、バルアダンの子メロダク・バルアダンは、ヒゼキヤが病気であるということを聞いて、ヒゼキヤに手紙と贈り物を送ってきた」(20:12)。バビロン王は、前述のように近隣諸国と同盟関係を結びたいという願いを持ち、ヒゼキヤ王に使者を遣わしたと思われる。この計らいをヒゼキヤ王は非常に喜び、「使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを彼らに見せた」(20:13)ほどに気を許してしまった。 アッシリアから脅しの手紙を受け取り窮地に立たされた時、ヒゼキヤ王は神殿で祈った(19:14−19)。しかしバビロン王からの喜ばしい手紙を受け取っても、まず神に感謝の祈りをささげるのではなく、有頂天になり、「自分の国はこれだけのものを持っている」と見せびらかすようなことをしてしまった。持ち上げられると喜んで気を緩めてしまうのは、人間誰しも同じである。
このことはやがて預言者イザヤの耳にも入るところとなり、問われるままにヒゼキヤ王はありのままをイザヤに伝えた。イザヤは「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る」(20:17)という神の言葉を告げた。約200年後に起こる「バビロン捕囚」の預言である。
「ヒゼキヤ王のしてしまったことが後々禍根を残す」という叱責に対し、ヒゼキヤ王は「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」と答えた(20:19)。この不可解な言葉は、肯定的に解釈されることが多い。ヒゼキヤ王は「警告」としてイザヤの言葉を信仰により前向きに受け止めたという解釈である。ヒゼキヤ王は民の生活と国防のために怠ることなく働いた王であるということが、20節(「ヒゼキヤの他の事績、彼の功績のすべて、貯水池と水道を造って都に水を引いたこと」)から知ることができる。防衛のために城壁を高く築こうとする時、その中に水を確保するのは大変重要なテーマであり、また困難な仕事であった。
一方、『聖書教育』ではこの時のヒゼキヤ王の発言や思いを「未来に対する不誠実な態度」(72頁)と解釈している。ヒゼキヤ王の「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」という言葉、「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」という思いを「身勝手、無責任」と受け止めるのか、「せめて自分の時代はしっかり責任を果たしていかなければならないという決意」と受け止めるのか。現代に生きる我々が旧約聖書から何を受け取っていくのかというテーマは、なお眼前に在り続ける。