ルカによる福音書 1:26-38
新約聖書に収録された四つの福音書は、「降誕」の場面を様々な形で取り上げている。マタイとルカは直接「降誕」の物語を記しているが、それぞれ違う角度から語っている。マルコは直接的な形で「降誕」を語らずに「主イエスが神の子であること」を宣言している。またヨハネは「降誕」を物語るというよりもむしろ「降誕」の意味を語っている。全てに共通するのは、「主イエスが神から来られた方である」というテーマである。主イエスにおいて神が我々のところに来てくださった。その生ける神の姿に接した者たちは、人間の知性をもって「主イエスが神である」ことを理解したのではなく、聖霊の導きの中で天の父に示され、その信仰を告白することができた。それらの証言が『聖書』なのである。
「神が我々のところに来てくださった」、それはすぐには信じることのできない奇跡である。神は永遠なる存在であり、天地万物を創造し、すべてを治め支配し、人間の手助けを必要としない全能の方である。有限の被造物である人間とは本来全体に交わることのできない存在であり、区別されなければならない存在である。そのような神は人となり、我々のうちに宿られた。
「主イエスこそ神の子である」と告白する証人たちは、主イエスの顔が栄光で輝いていたからそう信じることができたのではない。主イエスは人として全く悲惨な生涯を歩まれた。この世で受け入れられず、誤解され、やがて殺される方、それが主イエスである。クリスマスにおいて主イエスを思う時、我々は決して「栄光に包まれてやってきた神」ではなく、「馬小屋の中に身を横たえる神」「十字架の中にくだって来られる神」を示される。本来は天において満ち足りておられる神が、その完全さを捨てて人間の悲惨さの只中に来てくださり、「共にいて下さる神」としてご自身をあらわされた。その慰めを、「降誕」の物語や主イエスの生涯を証言する聖書全体が語っている。
我々の心には、「この世の悲惨さの中に神がいるのか」「神の支配などあるのか」という思いがよぎる。「結局、この世は人間の考えが最終的なものである」と考える我々に対し、聖書は「そうではない」と語る。全知全能の神は、小さくなり、「わたしの悲惨さ」「世の悲惨さ」の中で共にいてくださる方となってくださろうとする。それゆえに我々は悲惨さの中にあってもそれが絶対なのではなく神が共にいてくださることを示され、悲惨さを引き受ける力と希望を与えられる。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)、主イエスは何か大きな力を表わしながらそう言われたのではなかった。主イエスの眼前には十字架が、この世の苦しみや罪が迫ってきていた。普通の人間ならその事実に圧倒され、「神も仏もない」と言いたくなるような状況であった。しかし、「闇の中にあっても、わたしが共にいる」というメッセージを語るために主イエスは来られた。我々と共にいてくださろうとしてこの世に来られた神を信じさせて頂いていることが「クリスマスのめぐみ」である。我々の人生には様々な出来事が起こり、それは良いことばかりではない。矛盾や不合理と思える出来事を前に「どうしてこんなことが」と絶望してしまう。しかしそのような世にあって、「わたしがあなたと共にいるのだから勇気を出しなさい」と語りかけ、一人ひとりを顧みてくださる神がおられる。低きに低きにくだってくださった神が、ご自身の支配のうちに導いてくださる。初めて教会に来られた方に、神の愛と顧みを証しするクリスマスとなるように祈る。