聖書に「魂」「霊」「心」という語が登場する時、それら一つ一つの詳細な区別や定義は難しい。当時はそれほど厳密に区別が意識された上でこれらの単語が使用されているとは限らないからである。いずれにせよ、我々はこの詩を読むとき、「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない」(2節)、すなわち人生において神がどれだけ常に自分を目に留めて下さったかということを想起させられる。それは単純に「神は恵み深い」という観念的な認識に留まらない。神が自分の人生に常に伴い、計らって下さったことを思う時、我々は神賛美へと向かわされるのである。
詩人は自らに「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒し」(3節)と語りかけている。このところを「破れを繕って下さった」と訳した人がいた。恐らく我が身に起こった具体的な事柄を思い浮かべているのであろう。重い病気をしたのかも知れないし、様々な形で失敗し傷ついてきた場面を、この詩人は通らされているのかも知れない。そして詩人は死の淵をさまよう経験の中で「命を墓の中から贖い出してくださる」(4節)神に出会った。
神は詩人に「慈しみと憐れみの冠を授け」て下さった(4節)。我々は普段「冠」というものに馴染みがないが、それは 「上なる存在がその人に対して与える名誉、栄誉」を示す語である。自分自身は「冠」を受ける価値がない、醜く弱い者であるにも関わらず、神は「慈しみと憐れみの冠」を下さるのである。
続く「長らえる限り良いものに満ち足らせ」(5節)とは、「神が自分に欲しい物・素晴らしい物を何でも与えてくれて物質的に裕福な人生を送らせて下さる」ということではない。むしろ、我々は苦しみや悲しみの谷を通らされたとき、神が与えたもう「よいもの」に気づかせられるのである。
神が我が身に成して下さったことを思い起こしながら生きるとき、神は常に新たな力を与えて下さる。「鷲のような若さ」(5節)とはそのような事柄を指している。神に常に望みをおき、その恵みを思い起こし感謝する者は、どんなに年齢を重ねても若々しい。
6節以下においては、イスラエルの歴史の中で民が頂き続け、伝承された救いと恵みの事柄が想起されている。それを与えた方は、高い所におられるが慈しみにおいて近くありたもう神である。
そして、歴史にその救いと恵みのわざをあらわされた神は、まさに「わたしの神」でもあり、「わたしの信仰と人生」の歩みの中にそのみわざをあらわして下さっている。我々信仰者の「証し」は、単なる「独りよがりの思い込み」の言葉ではない。イスラエルの歴史を通して、主イエス・キリストの出来事を通してあらわされた神の恵みを、我々は今なお頂き経験し、その神に導かれ生きている。詩編103編は、「神の慈しみと恵みは我にさえ及べり」と、自らの信仰の歩みを振り返りながら読むことができる。神がおられること、神の恵みと慈しみとは、ただ「聖書にそう書いてある」と済まされるようなものではない。聖書を通して示される神は、今日までこの自分を持ち運んで下さった神なのである。