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2010年9月22日

 「長らえる限り わたしの神にほめ歌を歌おう」(2節)とあるが、この「ほめうた」を「詩編」と訳する人もいる。キリスト者の「神賛美」のために、「詩編」のような信仰の歌が備えられてきた。そしてそれらは共同の礼拝や個々の日々の生活において賛美されてきた。

 「神賛美」は具体的には「賛美歌」という形で「歌」にのせてささげられる。賛美するとき、我々の魂は主に向けられ、我々が今賛美しているところの神が、今、我々に伴ってくださることを実感することができる。そのような意味においても。賛美歌は信仰生活において非常に大切なものである。キリスト教は「歌の宗教」であると言われる。キリスト教の賛美歌はまさに「信仰の歌」であり、こちらの心情的なムードを盛り上げるものではない。礼拝における聖歌隊の賛美も「信仰の歌」であることを忘れずに聴いていきたい。「命のある限り」「長らえる限り」(2節)と言葉が重ねられているところに、「生涯、一生賛美し続けながら生きていこう」という自分自身への言い聞かせを感じることができる。

 「君候に依り頼んではならない」(3節)というところでのこの「君候」とは、具体的には「王」「支配階級の人々」「政治的な牽引者」を指す。我々は身近にそういう政治家との関係を持っているであろうか。何事かを成そうとする際、権力者の口利きがある方が通りのいいことも、現実にはある。いざというときに力を貸してくれる人の存在は有難い。しかしだからといってそのような人物に「自分自身を全部預ける」というような関わり方を持つわけではない。それで万事がうまくいくということはないからである。我々が真により頼む方は神である。無論、我々は達すべき目的のために祈り、為すべきことは為して備える。「神に委ねている」ということで手をこまねいているだけではなく、時には関係者に手を尽くすことも手段として考えられる。でもそれだけでは不十分である。「人間には救う力はない」(3節)のである。

 「救う力」の示すところは7節以降と関連をもつ。社会には不正があり格差がある。虐げられた人、飢えた人、戦争で負けて奴隷になったりする人もいる社会が現実にあり、為政者の仕事はできる限りそうした人々が救われる公正な社会を目指すことである。為政者のすることは絶対ではない。「全員が公平に生きる社会」の実現は難しい。我々はその実現を期待し求め続けていかなければならないが、為政者が完全にそれを実現できるかというと、それは実に難しい。つい先日、「検察による捜査用フロッピーディスクデータの改竄」という事件が明るみに出た。正義を願ってできた制度の中でもそのような問題が起こってしまうのである。

 「霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる」(4節)。ここでの「霊」とは「息」を指す。すなわち「人間が死ねば」というニュアンスの言葉である。ある為政者が死ねば、次には違う考え方の支配者が登場することも珍しくはない。「高福祉高負担の社会がいいのか、自由競争社会がいいのか」というテーマが長く議論されているが、それに対する見解も為政者によって異なる。どんなに立派な人間でも、その為すところは常に相対的なものであるというのが社会の現実であると言えよう。現実に社会を牛耳るのは為政者であるかに見える。しかし公正な秩序をまことに回復してくださるのは神である。その時を待ち望むのが信仰者である。我々は間違っても全部の期待を政治に託してはならない。それは「人間不信」ということではないし、この世の秩序に対して斜めに構えることでもない。我々は政治期待しバックアップをする。政治も経済も落ち込むムードの中で「リーダーを支えていこう」という姿勢は大切である。しかし「政治が全てを良くしてくれる」と夢想してはならない。的外れな過度の期待の後に来る失望は大きい。我々は政治に「期待しない」のではなく「期待しすぎない」のである。

 この世には苦しみや不安、様々な「格差」が存在する。しかしそうしたものだけにとらわれず一歩自由にされて生きるのがキリスト者である。なぜなら弱くされた時にこそ、我々は誰よりも強い神に依り頼むことができるからである。自らの弱さの中でこそ、我々は主の恵みと力とを味わうことができる。これは「終末論的な希望」とも言える。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)とパウロは記した。自分が弱い時にこそ、「神に依り頼む信仰」に招かれている。その神は「天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神」(6節)なのである。キリストにおいてみわざをあらわされた神は、今もそのみわざと力を豊かにあらわしておられる。 それは終わりの時に実現する希望にもつながる。そのような希望を持つ者こそ、幸いである。

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