121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。
川端純四郎は、新生讃美歌121の歌詞は、「山々」を「山辺」と訳されたことによって、「非常になつかしい、美しいものという日本的な感覚が持ち込まれて」しまった、と言う(『聖書教育』資料P94)。
「山辺」というと、日本人は緑多い美しい山を想像して、心が癒されるように思う。しかし、パレスチナの山々は、草木の少ない、石ころの多い荒涼とした山である。巡礼者は、これから旅立ち、通り越して行かねばならない山々を見上げる時、恐れと不安を感じるのである。困難な山の道を、自分の弱い足で越えてゆくことができるだろうか。一人で歩いて行くことができるだろうか」と恐れと不安を感じているのである。しかも、6節に「昼、太陽はあなたを撃つ・・・夜、月もあなたを撃つ・・」とあるように、パレスチナの砂漠地帯は、太陽の灼熱は過酷であり、日本の夏の比ではない。(夏、日本人は、多少両腕が日に焼けても、半袖のシャツで過ごせるが、中近東の人々は、長い衣服を着用して、体を保護しないと、命に関わるのである。)
また、昼と夜の寒暖の差が激しいので、月の光が冴え渡る寒い夜は発熱して病気になる危険がある。
巡礼者は、これから通り行かねばならない山々を見上げて、「一体、私の助けはどこから来るのだろうか」という気持ちに襲われるのである。決して、山々をすがすがしい気持ちで見ているのではない。
旅立ちを前にして、恐れと不安に襲われている巡礼者は、神殿で礼拝を捧げた天地の造り主である神への信頼を取り戻すのである。
121:2 わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。
「天地を造られた主」(2)
世界を創造された神は、今も生きて、働いておられる神である。なによりも、神はご自分が愛を込めて創造し、生かしめている人間の一人ひとりを心に留めておられる。しかも、神は人間一人ひとりがご自分に信頼して生きることを願っておられる。神はご自分に信頼する者を決して見放されることはない。
121:5 主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
「あなたの右にいます方」(5)。
「右」は弁護士、保護者が立つ側。結婚式で新郎は新婦の右に立つ。
3〜8節は、神殿の礼拝で共に讃美した神のことであり、祭司が語った神であり、祭司による祝福の祈りである。
「主はあなたを見守る方」(5)。
「見守ってくださる」が繰り返されている(6回)。
天地の創造者である神は、礼拝する者たちに、「わたしはあなたを守るものだ、わたしはあなたの主だ」と語りかけられるのである。
人生のあらゆる状況において、神が見守り、配慮してくださる。神を信じ、信頼するならが、人生の旅路を歩む不安は、まったき確信と安心に変わる。
天地の造り主である神は、どこか遠く高い所におられるのではない。「見よ、わたしは世の終わりまであなたと共にいる」と語られる。神が共にいて、見守ってくださるから、旅路の一歩一歩をしっかりと歩んで行くことができる、「神共にいます」(インマヌエル)、この経験こそ信仰者の幸いである。
今、礼拝を終えて自分の生活の場へと帰る巡礼者は、山々を見るのではなく、神の御言葉を信じて、天地の造り主である神を仰ぎ、神に信頼して歩んでゆこうと、決心しているのである。信仰者の人生は、巡礼の旅路である。
121:8 あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。
「出で立つのも帰るのも」。私たちの人生の出処進退において、神が守り、良き道に導いてくださるという神の恵みに対する讃美である。