1980年代にイスラエルとヨーロッパを旅した。ちょうどドイツのオーバーアマガウの「受難劇」が催される時期であった。その際、初めてイスラエルの地で実際に「羊飼いと羊の群れ」を見た。そこは荒涼とした荒れ野であり、草がそれほど豊富にあるわけではない。のんびりと横たわる羊飼いの周りでたくさんの羊が勝手に動き回っている。そしてひとたび羊飼いが歩き始めると、羊はぞろぞろとついていく。その時、「これが主イエスと我々の関係だ」ということを改めて教えられた。羊飼いは草が生えているようなところを見つけては羊を連れて行き、勝手に草を食べさせ休ませる。「そろそろいいだろう」と思ったころ、また別の所へ羊を連れていく。草だけでなく、水の出る所にも羊を連れて行かなければならないが、羊飼いはそのような場所を良く知っている。彼らは平坦な地を行くばかりではなく、時に水を求めて危険な谷底へ行かなければならない時もある。しかし羊飼いは羊をそのようなところへ守り導いていく。イスラエルでそのような光景を目にした後、ヨーロッパへ赴き、やはりそこでも「羊の群れ」を目にする機会があった。そこに「羊飼い」はいない。羊たちは緑いっぱいの牧場の囲いの中におり、放っておいても、誰に世話されなくても、勝手に自分で草を食べ、水を飲んでいる。「羊飼いがいないと羊が生きていけない」ようなイスラエルとは全く違う光景であった。23編のイメージとしてはやはりイスラエルの光景と重なるものがある。
我々「羊」は、どんなに荒れ野の中に住み過酷な状況で生きなければならなくとも、「羊飼い」である主が共におられるゆえに心強い。「羊飼い」は「羊」を「青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い」(23:2)リフレッシュさせてくれる。「羊飼い」は「羊」の必要をご存じでありそれを満たし、「魂を生き返らせてくださる」(23:3)方である。
「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる」(23:3)。人生は「旅路」である。我々はしばしば「どちらに行ったらいいのか」と迷う。しかし「羊飼い」である主が正しく導いてくださるという安心と信頼を頂いている。それはまた、「究極的な行き先は神の御国である」という信仰でもある。人生において困難な道を通らされても、必ず最後まで歩み通させて神の祝福にあずからせてくださるという信仰を、キリスト者は頂くことができる。
我々は人生において明るく平坦な道だけではなく、暗い谷間をも通らなければならない時がある。その中で最も暗いところは「死」の場面であろう。人間にとって最も孤独で不安な局面である。しかし「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない」(23:4)と詩人は歌う。
「鞭」「杖」(23:4)は、「羊飼い」が野獣を退け、また岩などを叩いて自分の居場所を「羊」たちに合図する道具である。「羊飼い」なる主が悪しきものから守って下さり、伴っていてくださることを様々な形で示して下さるので、「羊」である我々は安心し、力づけられて暗い谷を、しかも「死の陰の谷」さえも歩くことができる。
5節はそこまでの「羊飼い」とは若干異なるニュアンスで主なる神への信仰と信頼が歌われている。我々は生活の中で、苦しみを与えてくる様々なものに出遭う。夜も眠れないような、精神的に参ってしまうような状況の中に置かれることも少なくない。しかし「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(23:5)。主が食卓を用意し「これを食べて元気を出せ、恐れることはない」と声をかけ力づけてくださる。
我々は、「こちらがいっしょうけんめい主の恵みを求め追いかけている」と考えやすい。しかし実際には「命のある限り恵みと慈しみはいつもわたしを追う」(23:6)のである。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(Ⅰコリント15:10)とパウロは記しているが、そのようにキリスト者は「本当に自分が祝福された者である」ことを感謝することができる。
「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」(23:6)と歌われているところの「主の家」とは、「主を礼拝する共同体」である。今日では「教会」と言うことができる。「主を信頼し、どんなときにも主の家に生涯とどまり続ける」という信仰の告白である。「主の家」こそ、我々の憩いの水際である。主イエスは「わたしはよい羊飼いである」と言われた。主イエスに結ばれている限り、我々はこのように信仰の喜びを歌うことができる。
「主の家に生涯とどまる」とは「バプテスマを受けキリスト者として生きる」という表現である。「バプテスマを受けて主に結ばれ教会に連なる」人々がバプテストの群れである。バプテスト教会は「救い」という事柄に関して「信仰によって救われるということの告白」そのものに主眼をおき、「バプテスマ(洗礼)」そのものは「信仰を言い表し救われている」ということの「象徴」として行う。あくまでも「救い」は「信仰によってのみ」与えられるものであり、「バプテスマ(洗礼)」はそのことを指し示すのみである。一方、カトリックなど他教派においては「洗礼(バプテスマ)」は単なる「救いの象徴」ではなく、「救い」を与える「サクラメント(秘跡)」であると理解するところもある。「洗礼(バプテスマ)を受けることによって救いに与る」という理解である。そのような主張がされているわけではないが極端に言えば「信仰がなくても洗礼さえ受ければ救われるのだ」とも言うことができる。いずれにせよ、各教派それぞれの信仰理解があって良いし、その違いは大切にしなければならない。ただ、「自分たちのバプテスマ(洗礼)理解はこれで良いのだ」と閉じてしまうのではなく、他の信仰理解との対話が開かれ続けていくことも同様に大切ではなかろうか。
そのような意味で、バプテスト教会が「バプテスマ(洗礼)」を「単なる象徴・しるし」としてのみ捉え、「信仰さえあればバプテスマ(洗礼)そのものは二の次であって良い」という方向に流れることがあるとするならば、その点には疑問を呈したい。世々のキリスト者は「バプテスマ(洗礼)」を受けることで教会に結ばれてきたという事実がある。「自覚的な信仰の告白」のみを重視し、「キリストのからだに結ばれる」という「バプテスマ(洗礼)」の重要性を切り捨てて良いものであろうか。そういうわけで、「バプテスマ(洗礼)を受けて良かった」と証ししていきたいし、「バプテスマ(洗礼)」の勧めを続けていきたいと思う。遠藤周作が加賀乙彦に次のように語ったというエピソードが伝えられている。「お前は聖書を読んだりいろいろキリスト教について考えたりしているようだが、それは【無免許運転】だ。洗礼を受けないと、ちゃんとした運転にならんよ」。遠藤にそう言われ、加賀は洗礼(バプテスマ)を受けたという。