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2010年6月9日

 どのような時代に生きる者も、家計のやりくり、介護、家族、子ども、自分の老後のことなど、考え出したら切りがない重い悩みを抱えている。主イエスはここで「思い悩むな」(25節、口語訳では「思い煩うな」)と言われるが、これは決して「もう何も考えるな」ということではない。我々は生きていく上で、自ら思い巡らし計画し考えていかなければならない。

 その時、我々は「考えてもどうにもならないこと」まで心配し、そのことで不安にとりつかれてしまう。済んでしまったことをいつまでも嘆き、そのことにとらわれる。そのせいで、今まさに為すべきことがあるにもかかわらず、手がつけられなくなってしまう。そのような我々に、主イエスは「目先の生活も大事ではあるが、まず自分のいのちに目を向けよ」と語りかけて下さる。神の御手の中で、神の配慮、顧みがあって我々が生かされているということに再び目を向けさせて下さる。

 ここに「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)と語られているが、この「寿命」という言葉を、文語訳聖書は「身の丈」と訳した。原語では1キュピト(約45センチ)を示す言葉が用いられており、また原語で「寿命」を指す言葉自体も「年齢」「背丈」双方の意味を持つところから、どちらの意味でも解釈できるのかも知れない。いずれにせよ我々にとって、自分の努力で「寿命」も「身長」も伸ばすことは不可能である。このように自分の力の及ばない事柄まであれこれ思い煩ってもどうにもならない。主イエスはそのような我々に対して「自分でできるところまでやったら、あとは神さまにお委ねしなさい」と語りかけて下さるのである。

 「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ」(31−32節)。「異邦人」とは「神を信じないもの」の総称である。そしてこの先に、「もっと優先して求めるべきものがあるよ!」と主イエスのメッセージは更に続いていく。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)、まさにこのことが大切なのである。「神の国」とは「神の支配」である。神が我々を「尊いいのちを持つ存在」として顧みて下さっていること、神の支配があることを信ぜよと我々は迫られている。「神の義」とは「神との正しい関係」である。「神との正しい関係に生きること」を求めるよう、神の愛を知って信頼して生きると同時に、その神の御心に従って生きるようにと我々は迫られている。神が自分に求めていることは何であるのか、常に祈り聴き求めつつ、そのところを行う、神に喜ばれる生き方が我々に求められている。「あなたがたに求めていることがあるのだ」と、神は我々に呼び掛けているのである。

 主イエスが人の子として生まれ、この世で語られたメッセージの要は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)ということである。「悔い改める」とは「方向転換する」ことである。神に向き合って生きていない我々は、身を翻し、神との関係の中に身を投じなければならない。我々はこの一連の箇所から、ただ「あなたは神に愛されているから、安心して生きなさい」ということだけではなく、「悔い改めよ」「神の義を求めよ」というメッセージをも聴いていかなければならない。神に背を向けてしまいやすい我々が常に神のほうへと方向を向きなおし、神の愛に応えて生きるようにと、主イエスは求め、我々を招いておられる。

 我々には「なんとなく神の愛がある」ということを感じて満足するだけではなく、御心を聴いて従う歩みが求められている。それゆえに信仰生活においては、日々の歩みの中で主イエスに出会い神の御心を祈り聴き求めていく場所を持っているということが大切になる。キリスト者にとってはその場所こそ「主の日の礼拝」であり「毎日の御言葉と祈りの時間」である。その場所で日々、我々は「神に守られている、愛されているから安心、これでいい」という思いだけではなく、「神に喜ばれない、神を悲しませる生活をしている」自分自身を省み、神の赦しを求め、神に向き直る決意を与えて頂けるのである。

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