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2010年6月30日

 「詩編」は「いかに幸いなことか」(1節)という詩人の「感謝の言葉」から始まる。「神を信じて生きてきて良かった」という実感がここにあらわれている。信仰者は、自らの生活を振り返る時にそう思わされる。「神に依り頼むことができ、神がわたしの人生を知り、常に伴って下さるということは、いかに幸いか、祝福されているか」と思わされるのである。そのような者は、「神を信じない者たち」に同調しない。信仰を頂いていても、我々は「自分の知恵や力に頼りたい」「礼拝は後回しにしたい」という誘惑に絶えず襲われる。しかし、今はこうして神の憐れみによって、神を信じる道を歩まされているということに感謝させられるのである。

 「主の教えを愛し」(2節)とは、「御言葉を愛する」ということである。賛美歌の歌詞もそうであるが、日常においてふと口ずさむほどに御言葉に親しむと、いざという時にその御言葉が思い起こされ、導いてくれる。御言葉が血肉になるほど口ずさむのは、信仰者にとって大切なことである。

 また、「主の言葉を愛する」とは「主イエスを愛する」ということである。主イエスはまさに「神の言葉」である(参照:ヨハネ1章)。主イエスを見上げることにより、我々は「神の言葉」を知る。主イエスは神を指し示す方だからである。我々は神を直接見ることができないが、主イエスが神を指し示して下さった。主イエスの語る言葉は、すなわち「神の言葉」であり、主イエスの生き方は、すなわち「神の生き方」である。

 それゆえに、主イエスにしっかりつながり生きる者は「実」を結ぶ者とされる(参照:ヨハネ15:1-10)。4節にも「ときが巡り来れば実を結び」とあるが、この「実」とは「神が我々に願っておられるもの」である。 神は、我々が主イエスにしっかり結ばれ、その愛のうちに留まり、信頼して従っていくことを願っておられる。このような御言葉によって心を新たに造られる者は、まことに幸いである。

 このような詩が生まれた背景であるところの中近東には、岩の多い荒れ地が広がっている。砂漠地帯にも樹木は生え出るものの、ひとたび熱風が吹くとそれは一気に枯れてしまい、そこは死の世界へと変貌する。しかし、オアシスに植えられた樹木は水分を吸収し、その木の葉は青々と茂り、時がくれば実を結ぶ。「流れ」(3節)とは、このような地域に植物を育てるために計画的に作られた潅漑用水路のことである。自然に生え出た草木は熱風にあおられ枯れてしまう。自然のままに放っておかれたら枯れてしまう「木」(3節)である我々を、神は人生という砂漠の中から取り出し、「流れのほとり」(3節)に移し植えて下さった。そこは「御言葉」という水が豊かに流れるところである。そのような所に移し植えて頂いた者は、いつでもその流れから豊かに飲むことができる。そして「神はいつもわたしを導いて下さっているのだ」という幸いを知ることができる。

 「神に逆らう者」(4節)とは「神を信じない者」である。彼らは自分の知恵や力を頼んで生きる。ある時には順調に見えるがそれは一時的なものに過ぎない。神に依り頼む者は、自分のするべきことをした後、神に委ねることができる。「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(ガラテヤ4:9)ことはなんと心強いことであろう。我々は「主の愛の中にある」という事実を御言葉の中からいつも知らされていく。御言葉は「愛の泉」である。そしてそれを絶えず口ずさむ者は、主イエスに結ばれている者である。

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