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2010年6月2日

 この「子供たちは納めなくてよいわけだ」(17:26)という文章であるが、「子どもたちは自由である」が原義である。主イエスはまず「自由」を示された。主イエスの十字架の愛によって神の子とされた我々は「自由」である。主イエスが「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31−32)と語られ、パウロが「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」「兄弟たち、あなたがたは自由を得るために召しだされたのです」(ガラテヤ5:1、13)と記したとおりである。イエスをキリストと信じる者は「神の民」として「自由」を頂いた。そしてその「自由」は同時に神への服従と愛において、人々に「つまずき」を与えない配慮へと向かっていく。「つまずかせる」とは、「他人の信仰を失わせる」「他人に罪を犯させる」という意味である。キリスト者は縛られて何事かを行うことはない「自由」を頂いているが、その「自由」を愛の故に制限し断念する「自由」をも頂いている。パウロはこの事柄についてコリント教会の人々に書き送っている(Ⅰコリント8:1−13)。当時市場に出回る食肉は、神殿で偶像礼拝のために用いられた後のものであった。「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)という信仰の知識を与えられた人々は、例えば「偶像礼拝のためにささげられた肉を食べたら自分が汚れるのではないか」という恐れから「自由」にされている。しかし、「そのような考えは愚かである、自分たちは真実を知っているのだ」という思いは、その人を高ぶらせていく。人と人との関係を造り上げていくのは「知識」ではなく「愛」である。パウロ自身は偶像に供えられた肉を食べても食べなくても自由だと思っているが、自分たちがその知識を誇って肉を食べるならば「そのような肉を食べたら汚れてしまうのではないか」と思っている人たちの信仰が壊れてしまうことをも知っていた。「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(Ⅰコリント8:9)とパウロは警告する。「信仰の弱い人たちをつまずかせてはならない」という配慮である。 

「ペトロへの手紙 一」2:16には「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい」と勧めされている。キリスト者は実に「自由」であるが、「神の僕」としてどのように証しができるか、人との関係や教会を建て上げていけるかということが問われている。そのような「自由」が「キリスト者の自由」である。 ルターの名著『キリスト者の自由』では、キリスト者が「神に連なる、誰からも束縛されない王」であると同時に「全ての人に束縛される僕」でもあると表現されている。まことにキリスト者は基本的には何ものからも「自由」であり、いたずらに義務や他人の目を恐れることからも「自由」である。しかしそれゆえにこそ、進んで人々に仕えていく、それが「キリスト者の自由」である。

我々はここで何を学ぶべきであろうか。それでは何事に関してもひたすら他人に対して慮るのみで良いのであろうか。ただただ他人を「つまずかせない」にのみ注力すべきであろうか。主イエスでさえ、人々を「つまずかせて」いる(「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存知ですか」、マタイ15:12)、いや、むしろ人々が勝手に主イエスに「つまずいて」いった。「人々がどう思うだろうか」「周囲と調和しなければならない」ということだけに縛られるのもまたおかしな話である。キリスト者が常に自分の信仰的な立場を曖昧にするわけにはいかない。「他人への配慮」と「自らの信仰的立場の明示」とは、常に「緊張関係」にある事柄である。マニュアル的な答えは存在しない。「今、この場で、この人に対してどのような行動をとるべきか」という決断、すなわち「与えられた自由の中でどう生きるか」という決断には常に「緊張」がつきまとう。

我々は本日の箇所で言うならば25節からヒントを得ることができる。ペトロが外の場で「どのような行為をするのか」問われた後、主イエスは「家の中」から語りかけて下さったのである。キリスト者は、まず教会で主イエスの言葉を聴く。そして「あなたはどう思うか」(17:25)という主イエスの問いかけの前で自らの言動を自ら判断していかなければならない。その際、「他者をつまずかせてはならない」ということだけがキリスト者および教会の絶対的判断基準にはならない。ある時には個々のキリスト者および教会の姿勢を断固として示さなければならないときもある。大切なのは、「キリスト者はこうしなければならない」という思い込みに縛られるのではなく、常に主イエスに聴きながら生きることである。御言葉に聴き、祈る中で我々は「ここは愛のために折れてもいい」「ここは妥協してはいけない」と考えていくことができる。

最後に「魚から銀貨が出てくる」という印象的な表現があるが、我々はこれをどのように捉えるべきか。註解者は様々な解説をしているが(例:「その釣り上げた魚を売って、その代金で納税することができる」「湖には転覆した船などから転がり出た貨幣が多く沈んでいるので、釣り上げた魚の腹の中に銀貨が入っていても不思議ではない」)、いずれにせよ 「必要なものは神が備えてくださる」という希望と喜びに注目したい。

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