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2010年3月31日

 第一回目の捕囚から5年目に、エゼキエルは預言者として立たされた。このような出来事はイスラエルの対する神の裁きであり、それはなお続く。エルサレム中心主義や神殿信仰はうち崩され、やがてエルサレム神殿も完全に崩壊するであろうという預言を、エゼキエルは民に対して語った。エゼキエルはエレミヤとほぼ同時代に活動した預言者である。既に学んできたように、エレミヤは当初捕囚の民に加えられたにも関わらず途中で解放されエルサレムに戻り、そこで預言活動をしていた。活動場所の違いはあれど、両者とも「民の不信仰」「神以外のものに依り頼む間違った信仰の否定」を神から示され語った。 

 エゼキエルの預言の前半は「神の裁きとエルサレム滅亡」がテーマであった。当時、捕囚民の中に「間もなく我々を祖国に戻して下さる」と偽りの預言を語る者たちもおり、その言葉に奮起させられエジプトと組んでバビロンに反旗を翻そうとした者たちが現れた。そのような行動はバビロン王の怒りに触れ、やがてイスラエルは完全に滅亡させられる憂き目に遭うのである(紀元前587年)。エルサレム神殿は破壊され、第二回目の捕囚が始まった。民はいろいろな国に散り散りにされ、殺される者たちもあった。偽りの預言の言葉に浮き足立ち、反旗を翻しその果てに絶望的になってしまった人々に宛てて、エレミヤは手紙を書き送っている(エレミヤ書29章参照)。 

 第二回目捕囚の頃からエゼキエルは希望の預言を始めた。「完全に神から見捨てられた」という絶望感の中に投げ出された人々に対して神の計画を語ったのである。エゼキエルは語る。今、自分たちが裁きによって捕囚の生活にあるが、この裁きによって神は新しいイスラエルを興されるのだ。自分たちが礼拝できるのはエルサレム神殿だけではない。神はいずこにも臨在し給う。それは「エルサレムとその神殿が滅びない」という迷信をただし、「イスラエルの回復を経験した者の中から新しい神の民が興される」という預言であった。その言葉に励まされ、捕囚の地で再び神礼拝が始まった。シナゴーグ(会堂)がつくられ、人々はそこで礼拝し神の言葉を聞き、慰められ希望を持つようになったのである。エゼキエルは捕囚の民と共にバビロンで生き、活動し、キュロス王による解放を見ることなく死んだ。

 

 本日の箇所は、エゼキエルが神から示された幻を通して御言葉を頂く場面である。 

 枯れた骨が累々と積み重なる谷間(37:1)という印象的な場面からこの預言の物語は始まる。この「甚だしく枯れていた」(37:2)骨は「絶望状態にある捕囚の民」を指している。生活面においてはある程度自由を許され生活が成立してはいたものの、捕囚の地での生活を強いられ、それがいつまで続くのか分からないという状態に置かれた人々は、まさに「枯れた骨」のようなものであった。

 神はエゼキエルに「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」(37:3)と問い、エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」(37:3)と答える。枯れた骨の再生、すなわち絶望しきった大勢の民の再生・回復は自分たちの力では不可能であり、それが可能になるとすれば、それを為せるのは神のみであるというエゼキエルの信仰告白である。

 神は命じた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」(37:5)。いかに枯れ果てた骨であろうとも、神の言葉が聞かれ、霊が吹き込まれる時、それは生きるものとされる。「霊」とは「息」(ルアッハ)とも訳される言葉である。人は神の息を吹きかけられ霊を吹き込まれる時、生きるものとなる(創世記2:7参照)。人間は肉体だけの存在ではない。肉体も神から頂いた大切なものではあるが、肉体さえ丈夫であれば完全に生きているということではない。人が本当に生きるのは神の息吹を吹き込まれることによってのみ可能である。捕囚の民は神の言葉から離れ自分たちの境遇をただ嘆いていた。そのように「枯れた骨」となった民が本当に回復するためには、神の言葉を聞き神の息吹に触れることが不可欠であった。そのように生き返り神の前に生きるようになる者は「わたしが主であることを知るようになる」(37:6)。この「知る」とは既に学んできたように、単に知識として神を知るということではなく、神との生きた関係、生きた交わりの中に入れられる状態を指す。

 エゼキエルは「命じられたように預言した」(37:7)。「預言」とは預言者自身の考えや思いによって語られるものではない。預言者はあくまでも命じられ与えられた「神の言葉」を語る存在である。それが語られると、バラバラだった身体がひとつに形成された。「見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近付いた」「それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った」(37:7−8)。「神の言葉による創造」は、創世記においても用いられたモティーフである。神の言葉を聞かずいつの間に死んだ者になってしまっても、神の言葉によって我々は再創造されるのである。

 神はまたエゼキエルに告げた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」(37:9)。この「霊」は「人間の霊」を指す。すなわちそれは人間が「人格的存在」「神に応答する存在」であることを可能にする。

 エゼキエルが命じられたように預言すると、「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった」(37:10)。「霊」を吹き込まれることで、人間は境遇や状況に振り回されないで神の前に自ら立つものとされる。神との関係に生きることによって我々はそのように生きるものとされ得るのである。それは個々人においてのみならず、集団においても同様の事情である。

 続く11−14節は、この幻の経緯を説明している。ここでは「新しいイスラエルの回復」が預言されている。そこには神の言葉を聴き神との交わりに生きる新しい神の民の姿が示されているのである。

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