マラキはそのような時代から半世紀ほど過ぎた時代に活動した預言者であると想定される。その頃エルサレムはサマリア総督の監督下にあり、神殿において礼拝は規則的に行われていたものの、それは表面的、儀礼的なに陥りがちであった。彼らにとっては開墾など生活における試練の時期であったのと同様に、信仰の試練の時期であったとも言える。
マラキ書は「神からイスラエルの民へのメッセージ」と「イスラエルの民から神への反論」で構成されている。神はイスラエルを愛してきたと言うのに人々は「どのように愛を示して下さったのか」と反論する(1:2)。これは当時の人々の間にあった雰囲気であると想定できる。彼らは厳しい生活の中で神の愛を感じ取ることができずにいた。神は全ての民を愛するため、全世界に神の愛を示すためにまずイスラエルを選んだ。それがイスラエルの存在理由である。しかし神の愛は「拒絶されることのできる愛」「強制できない愛」でもあった。
3章の1−5節は「来臨に関するメッセージ」である。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」(マラキ3:1)という預言の言葉は「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)という預言の言葉と同様に、バプテスマのヨハネによって成就された。
しかし、それは待望されつつも手放しで喜べるものではない。来臨される主は「精錬」し「洗う」存在である(マラキ1:2)。その日、不純物は洗浄され浄化されなければならないのである。不純物、すなわち「不信仰」が除かれるとき、それはまずレビ(祭司)の子らから始まり(1:3)。その後、民全体がきよめられる。こうして信仰に立つ神の民が残され、「ユダとエルサレムの献げ物は 遠い昔の日々に 過ぎ去った年月にそうであったように 主にとって好ましいものとなる」(1:4)。イスラエルの民はこの時代も礼拝をささげていたが、それはもはや形式的かつ習慣的なものになっていた。そして今や来臨される主によって神の民が浄化され、新しい民の礼拝とそのささげものは主にとって正しく好ましいものになるというのである。
5節には、「悪しき行い」が列挙される。このように神を畏れず悪を行う者は、金属のかすのように処分される。社会的不正義は神への不正義である。
しかし「まことに、主であるわたしは変わることがない」と神は宣言する(1:6)。それだけではない。神の愛と真実とが変わらないのと同時に、神との契約を破って戒めを軽んじた「あなたたちヤコブの子らにも終わりはない」というのである。「終わりはない」とは「滅ぼされない」とも訳される。しかしそのような愛を示し「立ち返れ、わたしに」と招く神に対し、民はなお自分の罪を認めようとせず「どのように立ち帰ればよいのか」とつぶやき(1:7)、神に背きながら「どのようにあなたを偽っていますか」とうそぶく(1:8)。この「偽る」とは「欺く」「盗む」という意味を持つ言葉である。
マラキ書のこの部分は「十分の一の献げ物」について言及する箇所としてよく知られる。当時の献げ物は祭司として神殿に仕えるレビ人の生活を支えると同時に、「寡婦、孤児、寄留者」(1:5)の生活を支えるためにも用いられていた。とりわけエルサレム帰還後、「律法」が前面に打ち出される中で、この「十分の一の献げ物」の規定も強調された。当時は「エルサレム神殿中心主義」が濃厚であったが、地方にはシナゴーグ(会堂)があり、そこで仕える地方のレビ人にも応分の献げ物が配分される仕組みになっていた。
しかしマラキの時代には、そうした献げ物が十分にささげられる状況ではなくなっていた。民の生活は苦しく、害虫(3:11)や悪天候による不作も影響し、「神への献げ物は後回し」という現状があった。
マラキはそのような時代状況の中で、なお「初穂のささげものとしての十分の一」について語り悔い改めを呼び掛ける。それは「余ったものがあれば、余裕ができたら」ということではない。民は「どのように立ち返ればよいのか」と問うが、神はそれに対し「十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよ」(3:10)という挑戦を与えられた。これは厳しい挑戦である。しかし、それは神からの約束が伴う「挑戦」である。機械的に、習慣的にささげるのではなく、「神への立ち返り」「信頼」の表現としてささげる者に、神は測りがたい祝福をもって報いて下さるという約束がここにある。それは我々を神の愛で満たすための「挑戦」である。また、神の民が神を信頼し、信仰の献げ物をしていく生活の中で祝福されることが第三者の目に明らかになるとき(1:12)、そこに神の民として証しが成っていく。
このように聖書は、「十分の一の献げ物は、神に帰すべきものとして収入から聖別するように」と語る。ある旧約学者によると、「収入の十分の一」という表現は、文字通りの正確な数字比率ということではなく「初穂を神にささげる」という主旨を指し示すものであるという。
しかしマラキの時代の後、主イエスの生きた時代、律法学者たちは「十分の一」ということを義務的に、厳密に受け止めた。そのような数字的な面だけに拘る人々に対して、主イエスは「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしている。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが」(ルカ11:42)と語ったことにも併せて注目したい。