群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。(ヨハネによる福音書12章18節)
ヨハネは「エルサレム入城」の記事の少し前に「ラザロの復活」の記事を配置している。人々は驚くべき奇跡を目にし、「この人こそ、我々のために神が遣わされた王だ」と色めき立ち、興奮して主イエスを迎えた。人々は、主イエスが「どのような王であるのか」ということを真に理解したのではなく、ただ自らの期待に主イエスを押し込め、熱狂して主イエスを歓迎したのであった。
そのような熱狂のただなかを、主イエスは「ろばの子」に乗って黙々と進まれた。その行為をもって旧約の預言を成就し、自らの存在の意味を提示されたのである。しかし熱狂に酔いしれる人々はもちろん、弟子たちですら、この時にその意味を理解することはなかった。
今日からキリスト者と教会とは「受難週」の歩みに入る。「自分は何を期待して主イエスを迎えようとしているのか」を自問し、主イエスを十字架にかけた自らの罪、我々を救うために黙々と十字架への道を歩まれた主イエスの悲しみと愛とを心静かに思う週日を過ごしたい。;;”257″