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地域と共に歩む桜並木の教会

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主日礼拝宣教要旨

2010年12月15日

 キリストも我々を受け入れるために「御自分の満足をお求めにはなりませんでした」(3節)。「自分と違う存在を受け入れる」というのは、非常に「忍耐や寛容」の求められる出来事である。「自分を満足させよう」と思うなら、自分と対立する存在、自分と異なる存在はなるべく遠ざけるのが常であろう。しかしそれにもかかわらず、自分と相容れない存在とも共に生きるのは、「自分が満足するため」ではなく「主の栄光をあらわすため」である。主イエスの十字架は、敵対する者をも受け入れていく「神の真実と憐れみ」をあらわす、主イエスの生涯そのものである。すべての人間の「死」「人間の弱さ」「不信仰と罪」を受け入れる神の真実を、主イエスは十字架において身をもってあらわされた。

 我々は、自分の生来の性格では「自分と相容れない存在をも受け入れて生きる」ということが到底できない。しかしそれでもなお、この不信仰にもかかわらず、主イエスを通して自身が神に受け入れられたゆえに、その神の栄光をあらわすため、我々は互いに受け入れあうのである。そしてやがてそのことが「勝利」する。「この分裂した世界、苦しみに満ちた世界がやがて乗り越えられ、実を結ぶ時が来る」という希望が、キリスト者には与えられている。そのような場所こそ、「教会」である。「教会」は「互いの違いにかかわらず受け入れあう場所」である。もちろん、それは口で言うほどには簡単ではない。そこにはお互いの「忍耐と寛容」が必要になる。しかし「忍耐と寛容」は「互いに受け入れ合う」という場面の中では「消極的な行動」である。むしろ、我々は「積極的」に、「互いに声を掛け合う」ことで受け入れあっていくのである。歓迎し合い、励まし合い、「あなたを大切に思っているのだ」ということを積極的にあらわし、そこに「互いに受け入れ合う」という歓迎を現実のものにしていきたい。我々はその原動力を神から頂くことができる。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(13節)。

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