パウロは「…まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(12節)と語り、まず「同胞の救い」を心から願っている。この願いは、神の福音を知って信じ救われた我々の願いでもある。続けてパウロは「異邦人」について語る。その中でパウロは「異邦人」を「ユダヤ人」という「栽培されているオリーブの木」(24節)に「接ぎ木」(17節など)された「野生のオリーブ」(17節など)の枝になぞらえた。「異邦人」は神につながる木に「接ぎ木」されることによって救いを得るようになったというのである。
では、この「異邦人」という言葉を我々はどのように受け取ることができるであろうか。パウロは2章において「異邦人」の心の中にも神の「律法」が刻み込まれていると語りつつ、別の箇所において「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いる者として「異邦人」を説明している(エフェソ2:12)。神を知らないがゆえに人生の歩みにおいて本当の希望を持っていない者が「異邦人」なのである。まことの神を知らないとき、我々は何を希望としたらよいのか分からない。依り頼むことのできそうな目先の物事はやがて消えてなくなってしまう。しかし、まことの神を知る時に我々はまことの希望を得る。かつて神を知らない「異邦人」であった者たちも、キリストの福音によって「神を知る民」に接ぎ木されるのである。
「神を知らない」というのは「人間を知らない」のと同じである。聖書は「神はご自身の栄光をあらわすために人間を造った」とのメッセージを語る。神はそのために、人間に「自由に応答し行動する意志」「かけがえのない人格」を与えた。我々は「なぜ自分は生きているのか」「このような状況の中でなぜ生きなければならないのか」と問う。それは、「その置かれたところで神の栄光をあらわすため」なのである。ここに「人間の生きる意味」がある。 我々はひとりひとり、置かれた境遇も与えられた能力も異なる。それを思う時、主イエス語られた「タラントンのたとえ」が連想される。それぞれに置かれた状況と持ち物の中で、与えられたものをもって主人の意向にかなう働きをした者たちを、主人はほめた。主人を忘れ、1タラントンを土の中にしまい込んだしもべは、主人の目に「不忠実」な者となった。我々はひとりひとり、神に対する責任を負っている。神は必ずひとりひとりにその責任を問われる。ここに、神の「無限の慈しみ」と同時に「責任を問う厳しさ」がある。「無限の赦し」と「徹底した裁き」がある。
単に「神は愛である」と語る方がたやすい。「なぜ神は苦しみを与え、世には問題が満ちているのか」「なぜ神はすべての人間を救わないのか」「裁きは愛と矛盾するのではないか」、そのように問われることは珍しいことではない。しかしそれでも、神が我々の罪を赦すために主イエスをこの世界に送られた、その結果としての十字架には「神の慈愛と厳しさ」が示されていることを我々は証ししなければならない。神が我々の罪をうやむやにしてしまったなら、神は公平な支配者ではなくなってしまう。神は「罪を裁いて赦す」。 それが「十字架」である。 義を貫き、我々を赦し救うために、神はどんなに熱心であることか。みことばを通して、いま一度、共に考えたい。