我々は救いと愛の福音を聴き、「信じる」ことによって「義」とされる。それはすなわち、「神との関係が回復される」ことである。そのところで初めて「神の愛」が力を発揮する。我々は「信仰」によって「神の祝福」を知る。具体的な信仰生活において初めて、我々は「神の祝福」を知る。神が伴って下さること、神がなお「味方」となって下さることを信仰の歩みの中で折に触れて知るものとされていく。
パウロはこのような「神の救いと愛」は人間にとって「当たり前のもの」ではないのだということを強調している。そもそも我々と神との関係はどのようなものであったか。本来神が願われた関係から離れ、神に敵対していた関係であったにもかかわらず、そのような我々に神は主イエスの生命を与え、我々の死すべき生命を買い戻して下さったのである。
現在、世界的な潮流として、どのような教会が成長しているのであろうか。聖書の言葉や教理を説明するような説教をする教会ではなく、感情に豊かに訴えかけ、癒しを与えるようなプログラムを持つ教会が成長している。人々の思いの中で「わたしが何をもらいたいか」ということが先立っているので、そのようなものを与えるような教会のほうが、人が集まるのかも知れない。いずれにせよ感情的なものは人間にとって、また信仰にとって大切なものである。パウロは「ローマの信徒への手紙」においてこの部分まで論理的に語ってきたが、このパートの最後の部分で高揚した言葉を並べている。 人生、教会生活の中で神がわたしの味方であり、これからも神が伴ってくださる。キリスト者の人生はなんと祝福されたものであろうか。
パウロはこの世の生活を忘れて高揚しているのではない。パウロ自身も常に人生の戦いを感じていた。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並はずれて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(Ⅱコリ4:7-9)。パウロの現実は、中傷され命を狙われる中にあった。誤解され、理解されない孤独と苦しみを味わいながらもなお、パウロは「神はわたしの味方」と言った。正しくない者であるにもかかわらず、また他人がどれだけ「お前は悪い」と言ったとしても、「お前を罪に定めない」と言って下さる神をパウロは証しする。我々は社会生活、職場、近所づきあいや交友関係において、理解し支えてくれる「味方」がいることの心強さを知っている。どこに身をおいても、他人の評価が常に降りかかってくるのが我々の人生だからである。人間の願望として「神はわたしを愛してくださる」と言い立てているわけではない。「キリスト・イエスにおける神の愛」を語ろうとして、パウロは言葉を尽くすのである。我々はその愛を信仰によって感謝して受けることができる。信仰の歩みの中で知る祝福を、我々はここで示されているのである。