パウロが語る「わたしたちの霊」(16節)とは何であろうか。人間は肉体からのみ成るのではなく、神に応答する関係のうちに生きるように造られた「霊的存在」として、内なる「心」「霊」を与えられている。神はそのような関係性の中で常に「あなたは神の子なのだよ」と呼びかけていて下さるのである。そのような我々は「キリストと共同の相続人」(17節)、すなわち「キリストの復活の栄光を共に相続する、神の子」として頂いた。その時、我々は「栄光にあずかる」だけではなく「キリストの苦難にも共にあずかる者」とされ、またそのことにより「キリストの復活の栄光を共に相続する」ことの革新へと導かれていく。「キリストの苦難」とは、「この世の罪との戦い」である。この世には数多の誘惑、苦しみがある。キリスト者として生きていなければ知ることのなかった闘いと苦難を我々は味わうことで「キリストの苦難」に共にあずかっているのである。この世の罪を執り成し、神の赦しを宣べ伝えて行く中で、キリスト者は必然的に苦難と圧迫を受ける。
しかし、キリスト者として味わう「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)とパウロは語る。その「栄光」とは、「キリストの復活、永遠のいのち、神の国」に共にあずかる栄光である。この世の罪が一掃され神の国が完成されるとき、我々はその「栄光」に共にあずかるものとされる。
神の救いは全被造物の救いであるということを聖書は語る(cf. 「ヨハネの黙示録」21章…「万物の更新」)。人間の罪、勝手なふるまいのために全被造物は苦しみうめいている。既に「神の子」とされているキリスト者も、なおこの世における罪との闘いの中でうめいている。しかしそこには「希望」がある。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(24節)。この「希望」は目先の空しい希望ではない。「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(24−25節)。
パウロはさらに「聖霊の働き」について語る。それは「弱いわたしたちを助け」「執り成してくださる」方である(26節)。我々は神を「父」と呼びかけ祈るように励まされているが、キリスト者とされたからといって、毎日どんな瞬間も確信と喜びに満ちた祈りができるわけではない。むしろ信仰が鈍くなり、口からは拙く訳の分からない祈りの言葉しか出てこない日もある。しかしそのような我々とキリストは常に共におられ、背後で執り成していてくださっている。「聖霊」は「霊なるキリスト」である。それゆえに我々は祈りの最後に「この祈りを主イエス・キリストによっておささげする」と祈るのである。そのことほど、慰めに満ちたことはない。
キリスト者の信仰生活とは、「神の御心に従って、しもべとして生きようとする歩み」である。神を信じたからといって全ての物事が自分によって都合よく回り始めるわけではない。我々は「自分のために、神を信じる」ではないのである。我々のキリスト者として歩む生涯は苦難と圧迫に取り囲まれているが、この箇所で語られている「将来わたしたちに現わされるはずの栄光」(18節)の約束は決して揺るがない。もちろん我々にとって「苦難」は嬉しくない。しかしキリストが「苦難」の道を歩まれたように歩むとき、神の救いの計画が進行するために用いられ祝福されていく。「万事が益となる」(28節)とは、「自分にとって好都合なように事が進んでいく」ということではなく、「神の救いの計画が進行する」ということを指している。