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2010年10月6日

 同時に人間の裁きには常に不完全さが伴う。司法の問題が事件として表面化したことが記憶に新しいが、人間の裁きには恣意的な判断や思い込みも入り込みやすい。我々が判断する相手を見る時、実は相手のことを完全に知ることは不可能である。全く隠れている事柄を見極めるのは難しい。そこに人間の限界があり、人間の裁きには間違いが伴うのは避けられない。そのことを理解しているかどうかが大切である。「自分の判断はもしかしたら間違っているかもしれない」という前提がないと、互いの関係は難しい。人間の限界を留保しつつできるかぎり善悪を判断し、識別する努力を我々はしなければならない。

 「人を裁くな」とは、「絶対的な裁き」「相手を決めつける裁き」をしてはならないという命令である。そのような裁きは神のすることであり、16節にあるように、神の裁きの日にはすべてが明らかにされる。悪を悪のままで放っておいていいということではない。「神が裁かれる」という留保が大事だということである。「本当の裁きは神のなさることなので、委ねなさい、あなたは最終的に人を決めつけられない」というメッセージを我々はここから受ける。

 なぜ、我々は終わりの日に裁かれるのであろうか。それは、人間が神に対して責任を持つものとして造られているからであると聖書は語る。神はご自身の形に似せて、「神の似姿」として人間を造られた。神は人間に自由意志を与え、他者と関わり応答する責任を持つ存在とされた。それゆえに、我々は人生の終わりに神の前で総決算の時を迎えることになるのである。

 「神は人を分け隔てなさいません」(11節)とあるが、「分け隔て」とは「相手の顔を見て判断する」という意味である。神は人の外側、すなわち民族性、社会的地位、身分、肩書きを見てその人を判断したり裁いたりはなさらない。隠れた内にある事柄をみて裁くのが神である。神は表面的な部分ではなく、その人の全体を正しく裁かれる。そして終わりの日に我々は神の裁きを受けるが、今は悔い改めに導く神の憐れみの時である。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(4節)。我々が神との正しい関係に方向転換することを熱望する神の愛、我々をそのまま受け入れて下さる神の寛容、我々の罪深さを忍耐しなお悔い改めを期待し待ち望んで下さる神を思い、その愛によって神との関係に生きるものとされたことを知るならば、我々は人を自分勝手な判断で裁くことの間違いに気付かされることであろう。

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