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2010年10月13日

 そして、神は我々に、キリストの贖いをとおして義とされる道を開いて下さった。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(25節)。我々の罪はキリストの贖いなしには赦されないほどの罪、大きな罪である。それは神に対する罪である。我々は応答するものとして造られたのであるから、その責任を終わりの時に問われ、裁きを受けなければならない。しかし今は裁きの時ではなく、キリストの贖いの死をもって、神の方から正しい関係を回復するために手を差し伸べて下さっている。キリストの贖いのわざを通して、神は我々に救い(神との正しい関係におかれること)の道を開かれた。我々は今やキリストの贖いにより、神の一方的な恵みにより、義とされる者となった。我々は神の子とされ、神が子として扱ってくださる関係に招かれている。我々は神を「天の父」として対話し祈り交わることができるようになった。それは神からの一方的で無償の恵みである。こちらがなにか努力して認められるということではない。

 ところで、「条件」はやはりある。それは「信仰によって」という一点のみである。神は主イエスを救い主と「信じる者のために」(25節)救いをそなえて下さる。「信じる」とは「受け止める」ことである。受け止めなければ、神の恵みは「わたし」の中で生きることはない。「信じる」ことは「行為」ではなく、「アーメン」といって受け入れる信仰のみを示す言葉である。

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(22節)とは、「律法と預言者によって」(21節)示された「神の義」である。「律法」とは「神の戒め」「神の言葉」であり、我々人間に応答する責任があるものである。

 「律法」を通して示された神の意志に従うことにより神との正しい関係に入れられるように、本来はあるべきであった。しかしそのような仕方で神との正しい関係に入ることができる人は誰もいない。「律法と預言者」とは「旧約聖書」「旧約の時代」を意味する。既に神が計画し語ってこられたところの「救い」が、今やキリストによって示された。それは唐突に出てきたものではないのである。

 我々が救われる目的は、神の御心を行い神の栄光を示すことである。それゆえ「律法」は廃棄されていない。「律法」を行ったか否かで救いが左右されるのではないが、「救い」にあずかったということは、神の御言葉、神の戒めに従って生きることである。「罪を赦されたのだから、あとはどうでもいい」ということではない。我々人間は神の栄光を示すために造られたのであるから、そのように生きることが求められている。それは「ローマの信徒への手紙」において繰り返し語られているテーマである。

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