父イサクは兄エサウを、母リベカは弟ヤコブを愛した(創25:28)。後者に関しては、兄エサウが両親の願いに反して他民族の女性を妻にしたことも一因となっていたようである(創26:34−35)。
さて、創25:27−34で問題になっている「長子の権利」とは、まず「一族の長としての継承」を意味する。遺産についてはほかの兄弟の2倍を受け取るとの規定が定められていた。また、もう一つの大きな意味に「神の祝福の担い手としての役割」を継承するというものがある。25章の物語の中で、エサウは本当に死にそうなほどの空腹を抱えていたのであろう。そして、「長子の権利」というものにまさかそこまで大きな意味があるとは思っていなかったのではなかろうか。「神の祝福を担う、求めていく」ということより、「今生きるための物質」だけを求めたというこの場面で、エサウはそのような生き方を露呈してしまった(ヘブル12:14以下参照:「神の恵みを追い求めなさい」というすすめの中でエサウのことが言われている)。このことがあったあとで母リベカはヤコブをそそのかし、「兄エサウになりすまして祝福を得させる」という策略に打って出た。躊躇するヤコブに対し、母リベカは、事が露呈してしまった場合には「お母さんがその呪いを引き受けます」と言い放った(創27:13)。母リベカの偏愛ぶりが見て取れる。そして弟ヤコブは兄エサウになりすまし、祝福を騙し取った。
兄エサウは、自ら「長子の権利を譲る」と軽はずみに約束したにもかかわらず、まさかこのようなことになるとは思わず、立腹した。そしていずれ弟ヤコブを殺そうと決意する(創27:41)。それは母リベカの知るところとなり、彼女はヤコブに「わたしの兄ラバンの所へ逃げて行きなさい」と命じた。母リベカはエサウの性格をよく見抜いていたのかも知れない。「そのうちに、お兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから」と読んでいた(創27:45)。しかし、結局伯父ラバンはヤコブを20年以上引きとめておき、母リベカは愛する息子ヤコブに会えなくなってしまったのである。
こうしてヤコブは旅に出ることになった。ベエル・シェバから800キロのところに目的地ハランがある。20日くらいの旅程の多くは荒れ野の中であった。
ヤコブはとある場所へ着く。全旅程の10分の1ほど進んだあたりの話である。ヤコブは一夜を過ごすために石を枕とした。これは彼の歩まなければならなかった荒れ野の旅を象徴している。愛する両親と離れた寂しさ、 ずる賢く立ち回って兄の怒りを買ったことへの思い、兄に殺されるかも知れないという恐怖、見知らぬ土地に住まなければならないことへの不安、様々な思いがヤコブの胸中にあった。
するとヤコブは「夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創28:12)。この「階段」は、口語訳では「はしご」、賛美歌では「かけはし」と表現されている。それは「神に達するかけはし」であった。そこでヤコブははじめて神からの祝福の言葉を聞く。 「神との出会い」を経験したのである。
主イエスは我々と神との「仲介者」、「通路」、「道」であり、それは「救いのあらわれ」「偉大なこと」である(ヨハネ1:50−51)。ヤコブが夢にみた「はしご」はまさに主イエスのことを指し示している。困窮したとき、おそれと不安の中にあるとき、我々は初めて「神の祝福」の語りかけを聴く。それは、主イエスによって用意されている出来事である。