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2009年8月5日

 アブラハムは「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」、すなわちアブラハムにとっての「特別の子供、約束の子供」を、「焼き尽くす献げもの」として神にささげるよう、神から命じられた(2節)。今日、「動物を殺して焼いて犠牲としてささげる」という行為はグロテスクなようであり、受け入れられがたいものであろう。同様に、「我々の罪の犠牲として死なれたイエス・キリスト」ということも、現代では受け入れられにくいかも知れない。聖書は全体から読まないと理解のできない書物である。現象だけを捉えてそこから意味を読み取ろうとしても、それは難しい。聖書はやはり教会の書であるから、教会で読まないと真の意味を捉え損ねるのである。

 「犠牲」という言葉ひとつにしても、神が求めておられる本来の意味が分からないと、理解できない。しかもここでは大切な一人息子であるイサクをささげることが要求されている。これはアブラハムにとっては非常にひどい、大きな試練であった。この箇所には、「アブラハムが神の命令にどのように従ったか」ということだけが書かれている。「アブラハムがどういう気持ちであったか」ということには言及せず、淡々と「従った」ことだけが書かれている。

 「贖いの供え物」には2つの意味がある。

 ひとつは「罪を贖う」ということである。「罪の贖い」にはそれ相応の苦しみや犠牲、償いが求められる。イスラエルの歴史において、罪は「償うもの」である。自分自身でその苦しみを受けることもあったし、そのしるしとして動物に身を託して神に償いとしての犠牲をささげることもあった。礼拝において子羊が犠牲としてささげられるとき、代表として祭司が子羊に自分の手を置いた。「自分自身の身代わり」ということの表現である。

 本日の箇所は、「アブラハムの罪に対する償い」を求められている場面であるという側面がある。アブラハムは実際に神の前に多くの罪を犯した(例:妻を妹と偽って身の安全をはかり、結果としてこの不信仰が多くの人を苦しめた・・・創世記12:10−20/「子孫を増やす」という神の約束が信じられなかったので、サラに仕えるエジプトの女性ハガルに子供を生ませ、イサクが生まれるとハガルと息子を追い出した・・・創世記16章、21:9−21)。これらのことに対して、神の裁きが下された。そのことをよく分かっていたために、アブラハムは、神の求めに黙々と従ったのである。

 もうひとつの意味は「献身」ということである。神は我々に、全く神ご自身に服従して歩むということを求められる。そのしるしとして、旧約時代の人々は「焼き尽くすささげもの」をささげた。それはどうでもいいようなものではなく、例えば羊をささげるとするならば、全く傷のないものをささげる。イスラエルにおけるひとつの宗教儀式である「犠牲のささげもの」は、形式的なものではなく、「わたしはあなたに従います」という献身のしるしでなければならなかった。ただ形だけささげればいいというのではなく、そこに神に従う献身の思いがなければならない。 アブラハムに、最も愛するものをささげる用意があるかどうかを試す意味で、神はイサクの奉献を命じられた。 最も愛するものを神に明け渡すことがないならば、その人には「神より大事なものがある」ということになる。

 今日、我々は神に自分自身をささげることを願って礼拝するが、果たしてそれはそのようになっているであろうか。形式的な礼拝に陥りやすいところに、我々の弱さと罪とがあらわれている。惜しまない信仰を持っているのか、そのことが常に問われている。ここに、アブラハムのおそれとおののきがある。

 ついに神はアブラハムが「神を畏れる者」であることを認めた(12節)。「神を畏れる」とは「神の命令に従うこと」「神を神として服従すること」である。アブラハムはこの試練をとおして神に従う決心をあらわした。そして「後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられて」いるのを見た(13節)。この雄羊こそ、新約においてあらわれるイエス・キリストである(「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」・・・ヨハネ1:29)。神は全人類のために独り子イエス・キリストを下さった。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(Ⅰヨハネ4:10)などの聖書の箇所を我々は当たり前のように読んでいるが、この「イサクの奉献」の箇所からこれらの聖句を見ると、神が独り子をお与えくださるのに、どれだけの傷みと大きな決断があったかということを思わされる。 

 アブラハムがこのような信仰を勝ち取るためには、何年もかかったし、そこに至るまでに様々な試練の中を通された。神が最善をそなえてくださるという信仰は、アブラハムにもともとあったわけではない。次第に整えられていったのである。試練を通して神を少しずつ知っていく 信仰を形成していく、そのような人生をアブラハムは歩んだ。

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