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地域と共に歩む桜並木の教会

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2009年7月8日

 このノアをめぐる物語は、今から3000年前くらいにまとめられたY(ヤーウェ)資料に依拠するが、旧約聖書の資料としては他にもE(エロヒーム)資料あるいはP(祭司)資料などがある。創世記の物語に矛盾と思えるような箇所があるのは(例 7:2と6:20など)、これら資料の違いがあるからである。現在ではどの部分がどの資料に依拠するものなのか、などということが大方判明している。

 同様にアダムとエバの物語もY資料に依拠している。そこには「神をわたしたちに身近に親しい方として描く」という特徴がある。神は天と地をつくったときに「それはきわめてよかった」(1:31)とおっしゃった。創造のすべてにおいて満足されたのである。そこに創造されたのは美しい秩序と調和に満ちた世界であった。しかし、最初の人がまず罪を犯した。神が美しく作った世界に罪が入ってきた。それゆえに今も昔も「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」(6:5)という現実がある。そこで神は「後悔し心を痛められた」(6:6)。神は人間を、人形やロボットのようにではなく、ご自身にかたどり自由な意志をもつ人格として創造された。しかし人間は神の願いに反し、神の言葉に信頼しなくなり、神から離れ、地上に悪がはびこっていった。そこに神の悲しみが向けられている。そして神は人間を「地上からぬぐい去ろう」(6:7)という裁きの決意を確かにされた。「裁き」というのは、「神の悲しみ、痛み」に基づくものである。神は「心を痛められる神」である。どのようなことがあっても泰然と構えている不動の神ではない。聖書を通じて啓示される神は心を痛め、後悔される。「神が愛である」というとき、その愛は「普遍的」(どんな状況でも変わらない)なものではない。神は十字架を通してその愛を表された。それは大昔から一緒の愛ではない。神は洪水のあと、「もう人間を滅ぼさない」と決意された。「人間が罪を犯さなくなった」ということではないにもかかわらず、そのように決意された。そして神はキリストを通して人間の罪を自ら背負われ、痛みを引き受けられたのである。神の裁きには神の痛みが伴っている。キリストの十字架には裁きがあり、その痛みを神ご自身が受けられた。それが神の愛である。神はその都度我々と関わり続けて下さり、その中でその都度、愛を示して下さる。

 神は地上を滅ぼそうとしたときに、なおひとりの人を選び(「好意」、一方的な恵み)、再創造のために「残りの者」を選ばれた。どうしてノアが選ばれたのであろうか。ノアについて、口語訳では「神に従う正しい人」(6:9)と語っている。彼自身が完全無欠な存在だというのではなく、常に神との関係において「正しい」人物であった、という意味合いである。神との正しい信頼関係を持ち、「神と共に歩む」のが神にとっての「正しい人」である。

 ノアが作るようにと命じられたものは、古代においてはとてつもなく大きな船であった。長さ150×幅25×高さ15(メートル)、3階建ての客船のようなイメージを我々は持つことができる。大変な作業であったにもかかわらず、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(6:22)。ここにノアの信仰があらわれており、「正しい人」であったということの根拠がここにある。彼はとにかく、「神が命じられたように果たした」。どうしてこのようなことになったのか、そうしたとしたらその先どうなるのか、など、あまり説明されていないのにも関わらず、ノアは神に従ってそのとおりに作った。それを見て周りの人は嘲ったであろうし、洪水が来る気配は感じられなかったかも知れない。それでもノアは作り続けた。それは信仰と忍耐、服従の行動であった。

 さて、「四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した」(8:6)。古代では鳥が羅針盤の役割を果たしていたのである。次にノアは鳩を同じように放した。するとやがて鳩はオリーブの葉を加えて戻ってきた。そこで「ノアは水が地上から引いたことを知った」(8:11)。彼らは自分たちが神の恵みによって救われたことを感謝し「主のために祭壇を築いた」(8:20)。

 この世には暴虐と神に反することが満ちているが、それでも世界が滅ぼされず、四季が巡り毎朝太陽が昇るという秩序が保たれているのは、このときから続いている神の忍耐、恵みの事柄に他ならない。やがて神は、自らの「義」を示された。そして今やキリストの贖いにより信仰によって無償で我々に「義」が与えられるようになった(ローマ3:9−26参照)。今やキリストによって今一度、我々に神との正しい関係に立ち戻る救いの道を与えられたということが、新約聖書のメッセージの根幹である。

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