11章にはセムの系図が出てくる。セムはノアの息子のひとりであり、その系図の中から(11:27)テラ、アブラムが出る。この周辺の物語の舞台になっているのは、「バベルの塔」でも舞台になったバビロニアである。すなわち、紀元前2000年の世界で非常に文明の栄えた、文明の発祥地のひとつが舞台となっている(聖書のうしろ、「1 聖書の古代世界」の地図参照)。
(11:31)テラはアブラム、ロト、サライと一緒にウルを出てカルデヤ地方に向かった。元はバビロニアの文明都市に住んでいたがテラはそうした都市の便利さなどは享受していない流浪の遊牧民であったと推測される。
ヨシュア24:2を参照すると、テラなどは他の神を拝んでいた(月神礼拝など)。そのようなテラがカナンへ向かい、ハランヘ来たときテラが死んだ。そのとき神がアブラハムにあらわれたのである。
(12:1)神は、ひとりの遊牧民、無学の人にご自身をあらわされた。アブラハムを選び召すことによって贖いの歴史を開始されたのである。マタイ1章の系図を見るとき、マタイの系図は「アブラハムを始めとして神は救いの歴史を開始された」ということを表していることが分かる。
森有正(森有礼の孫)がアブラハムについて書いている。森は「内なる促し」という表現を用いた。全く今までは異教の神のところに住んでいたのが、見えない神の「内なる促し」により、見えない神を信じる信仰がアブラハムに与えられたのである。昔も今日も神は姿をあらわさない。しかしながらアブラハムは今まで聴いたこともなかったような神の声を聞いた。「生まれ故郷」とは、多くの人たちが住むバビロニア、ウル、ハランなど、自分がすでに留まったところである。生活がそこに築かれているところであり、この時代に自分たちの血縁共同体、生活の拠点から離れていくことは大変危険なことであった。民族から離れて移動することは危険なのである。弱者はすぐに滅ぼされてしまうような中で、「父の家を離れて」「親族を離れて」(口語訳)生きるようにと冒険を促す神の召しがアブラハムに与えられた。今まで生きていた生活の場所、人間関係を絶って出ていけというのである。その時点で神の示す地はどこなのだか分からない。ヘブル11章には、「行き先も知らないで」というのがアブラハムへの命令、促しであったと語られている。
アブラハムは信仰の父として、我々に「見えない神を信仰する姿」を示す。見えない神の言葉を聞いて信じ従うことは、アブラハムと同様に我々にとっても当惑させられることである。「これでいい」と安住してるところから「出なさい」という促しは、我々にも向けられる。イエスも「わたしより父や母を愛するものはわたしにふさわしくない」と語った。不条理に思えるような促しがあったときに、神は決断を迫られる。そのような中でアブラハムは12:4のように「主のことばに従って」立ち上がったのである。そこには「神の約束」が伴っていた。しかしそこにあくまでも見える形での保証はない。「約束」はあくまでも「約束」であり、それを信じて生きる生き方が求められているのである。
ヘブル11章によれば、アブラハムは信仰の故に神に義とされた。自らが「神の言葉によって無から創造された存在である」ということは、信仰によってしか分からない。そしてアブラハムは8節にあるように、ただ主の召しと約束を信じて出発した。 幕屋は遊牧民が移動するときに張っていくものであり、彼らは定住者ではない。12節にあるように、アブラハムからイスラエルの民が出てきた。神はセム族の遊牧民のひとり、ハランに定住していたひとりのアブラハムを選んでご自身の救いの歴史を開始された。選んだ者に信仰を求めるという歴史がここでも語られている。
アブラハムが生きているうちに見える形で成就しなかった約束も多い。しかしそれはイエス・キリストの教会において成就したのである。「教会」は「約束の地、増え広がる祝福の源」とされた。神の祝福はイエス・キリストにおいて見える形で受肉し、十字架で罪と悪へ決定的な勝利をおさめ、教会をとおして全世界にその約束と祝福が注がれた。もう罪と悪が決定的になることはない。それは目に見えない事柄ではあるが、神が今も約束として与えておられる。そして信仰をもってそれを受けるものであることが我々に求められている。
イエスにおいて神の国は到来したが、それは未だ完全に成就してはいない。この地上においては我々も途上にある。アブラハムの信仰の歩みと同じである。試練の時に、それに向かって勝利するときと敗北することがある。常に堂々とした、常に試練に打ち勝つ勝利の歩みだけが我々にあるわけではない。我々もアブラハムと同様、地上においては弱さをさらけ出す、さすらい人である。そしてアブラハムはそのような中で悔い改めた。イサクの奉献は、アブラハムの試練であった。そこに彼の畏れおののき苦しみ悩みながら賭けていく姿を見ることができる。我々は、信仰を貫かねばならないときに、ある時は信仰がなくなり、ある時は打ち勝たせて頂く。教会の歩みも我々の歩みも、不動ではない。痛めつけられ翻弄される弱い群である。そのようなものになお伴い、約束の地に導いてくださる神がおられる。決してひとりぼっちではないということを我々は経験をする。それが、我々に既に与えられている「祝福」である。