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2009年6月10日

 創世記は、格調の高い厳密な言葉で語られる1章から始まる。その意図は見事である。

 「初めに、神は天地を創造された」(1:1)という言葉に、ヘブライ人に与えられた神信仰(天地の創造者である神)がよくあらわれている。全ては神によって存在しており、その神は超越神である。これは周辺世界と対比する際、特異な神観であると言える。周辺世界と同じような創造物語を語りながらも、我々の神は「自然神」(どこかから誕生した、造られた)とは違うのである。また、「我々はすべて神に属するものだ」という信仰が創世記には色濃い。それは「いろいろなことがあってもすべては神の手の中にあるのだ」という信頼、希望である。これは決してヘブライ人だけの信仰ではない。神は全世界を祝福しようとしておられる。全世界の祝福の源として神はアブラハムを選ばれた。イスラエルには、単なる民族信仰ではない、希有壮大な信仰が与えられたのである。

 本日取り上げた箇所は、まさに「天地の創造」の場面である。記述どおり、神は6日間ですべてを創造したのであろうか?ここに「聖書と科学の相克」というテーマが存在する。現在ではむしろ、「科学と相反するもの」として信仰をとらえるというよりも、聖書は「神との関係、信仰の事柄、神のわざ、神の世界」を語っていると捉える向きが多い。聖書やそこから示される信仰の事柄は科学と張り合うものではない。聖書は「存在の意味」について語る。howを説明するのは科学であるが、聖書はwhatを語る。科学の事柄を信仰の対象にしようとするところに、誤りが生じてくるのである。

 また、詩編8編3−4節にあらわされているのは、我々を造られた神が、どこか遠くはなれたところにおられる無関係の神ではなく、我々を顧み、ご存じであるという信仰である。大宇宙の中で砂粒のような人間を顧みてくださるという信頼である。

 「創造する」(バーラー)という言葉をつかうとき、主語は「神」しかない。日本語でも「作る」「造る」「創る」とさまざまなニュアンスのある「つくる」という言葉があるが、神の創造は「無からの創造」(ロマ4:17参照)である。「何も存在していないところから生み出す」という「創造する」(バーラー)は、全能の超越神を主語にしてのみ用いられる言葉なのである。

 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1:2)。最初のうちは混沌(カオス)があった。この言葉は「闇、深淵、水」を表現し、それは古代人にとって恐怖を感じさせるものであった。この世には確かに混沌や闇がある。しかしそれもまた神の手の中にあるという事実がこの箇所に示されている。神の霊がそれを覆っている、動かしているという信仰である。ヘブライ人の歴史は決して安楽なものではなかった。 しかし彼らはそのような苦難の歩みでさえも、神の手が包んで下さっているという希望をおいたのである。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった(1:3)。ここでは「言葉による創造」が示される。人格者なる神は、偶然のうちにではなく、ひとつの意志と計画をもって世を創造されたという信仰がここにあらわされている。我々の神は「話しかけられる神」である。そして造られた自然のすべては、神のみわざを賛美し映し出す存在であるが、神が「話しかけられる」その相手は「人間」である。我々の神は交わりを求める神であり、人間は神の語りかけに応答し交わりをする存在として造られている。

 「神は光を見て、良しとされた」(1:4)。ここには「創造されたものはすべてよい」という信仰があらわされている。苦難を背負わされた民族がこのような信仰を言い表した。彼らには現実逃避するのではなく この世を肯定し、その中で生き、生かされていくという信仰が与えられたのである。

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