パウロがテサロニケの人々に勧めた「神に喜ばれる」生き方は、パウロ自身もまた他の誰かから教えられたものであった。決してパウロ個人の考えから出たものではなく、イエス・キリストの教えと伝承に基づくものである。そしてテサロニケの人々はそれを受け入れた。「わたしたちから学びました」(4:1)とは、そのような事情を表現している。
「聖なる者となる」(4:3)とあるが、キリスト者は既に「聖なる者」とされている。それは神のわざである。「聖なる者」とは決して「道徳的に高潔な者」ではなく、「神に選び分かたれた者」「神がご自身のために選んだ者」であるということを忘れてはならない。「相応しく道徳的な生活をしたら、聖なる者とされる」のではない。「既に聖なる者とされているのだから、それに相応しい生活をする」のである。「みだらな行い」(4:3)とは、口語訳聖書では「不品行」と訳される言葉であり、男性にとっては「妻以外の女性との性的関係」を意味する。「汚れのない心」(4:4)とは「聖なる者としての」心であり、「尊敬の念」(4:4)とは「相手の人格を尊ぶ」ことである。当時のギリシャ・ローマ世界では性的なモラルは緩やかであり、このような勧めは到底受け入れられるようなものではなかったという背景がある。このような勧めの主眼は、「家庭が崩壊しないように」ということではなく、第一に「神に喜ばれるために」というところにある。
このような勧めを拒むことは「御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになる」(4:8)とパウロは語る。この「あなたがたの内」とは、「個々の心のうちに」ということではなく、「あなたがたの交わりのうちに」ということであり、パウロはここでも信仰の事柄を教会に結び付けて書いている。
9節に「兄弟愛」という語が登場する。教会に連なるお互いは、しばしば「兄弟姉妹」と呼ばれ、「家族」に擬せられるが、この「兄弟愛」は「教会の、主にある家族の愛」を表している。教会における「家族」の関係は、血縁によるものとは違うということを覚えなければならない。それは「情愛」の関係でも「個人的なつながり」でもない。教会における「家族」「兄弟姉妹」とは、「お互いが等しく神の子とされていることを認め合う」関係なのである。当時の教会では、互いに「とりなしの祈り」「経済的に困窮する働き人への経済的支援」「もてなし」がなされていた。
パウロは「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように」(4:11)勧めている。この背後には、当時「主イエスの再臨が近い」と確信し、熱狂的になって日常生活を軽んじる人々が存在したことを示している。しかしキリスト者はいつの時代もこの世から遊離するのではなく、落ち着いた信仰生活をしながら、再び主イエスが来られるときに備えるべきである。いわゆる「カルト教団」と呼ばれる団体は、メンバーをこの世から隔離し、この世との関わりを持たせないようにする。しかし、キリスト者は「外部」(4:12)に対して開かれた生活、「外部」に対して証しする生活を送る。神に仕える者として神に喜ばれる生活をすることが「伝道」になり、またそのことが教会を建てあげるのである。