それぞれがどのような土台の上にどのようなものを建てたか、すなわち「どのような実を結んだか」ということは、かの日に明らかにされる(13節)。我々の「建て上げる」働きは、最後のときに吟味されるのである。さばきの日に我々の信仰の実、仕事が残っていれば神の報いを受ける(14節)。しかし、建てあげたものが燃え尽きてしまっていれば、それは我々にとって損害以外の何ものでもない(15節)。我々がいくら自分の力で努力して人生のうちで何かを建てあげてきたとしても、イエス・キリストを土台としない仕事は、空しいものとして終わるということをパウロは語る。しかしながら、その人自身は「火の中をくぐり抜け」(15節)なければならなかったとしても、救われる。我々の為すわざは神のさばきに耐えるものではなかったとしても、それでも自分自身は救いにいれられるのだという希望が、同時にこの箇所では語られている。
「神の神殿」(16節)とは、「教会」「我々のからだ」を指し示す。イエス・キリストを主と告白し、主の名において集まるところに主の霊が与えられる。そのようなところが「神の神殿」とされる。我々は自分の努力を頼みにするのではなく、聖霊の導きを常に頂かなければならない。聖霊にまず目を留めることが、我々のなすべきことである。我々はイエス・キリストによって建てられた建物なのであるから、聖霊が生きて働いてくださることに目を留め、信仰生活をし、働くことが大切にされなければならない。聖霊がいつも我々のうちにその信仰を建てあげてくださるという視点を持ちたい。
「祈り求める」ということに関して、P.T.フォーサイス(Peter Taylor Forsyth, 1848-1921)の著書『祈りの精神』(斎藤剛毅訳)から学びたい。
フォーサイスは、「祈らないこと」が罪であると言う。神は我々を「祈る人間」として、すなわち神に向き合う人間、祈る人間としてお造りになったからである。祈りには様々な祈りがある。自分自身のために祈り始めたとしても、だんだん自分を超え、神に心を向け、他の人々のためにとりなしの祈りをするようになる。最初は自分本位の動機だったとしても、とにかく祈るときに、聖霊の主が我々の信仰を建てあげてくださるのである。
また、フォーサイスは「祈りは労働である」と言う。我々の魂が養われるためには、「祈り」という労働が不可欠なのである。主イエスも常に必要に迫られ神に祈られた。ご自分の十字架という杯を飲まなければならないときも苦しみながら祈られた。祈りは、自然と口をついて溢れ出るときばかりが日常にあるわけではない。「さあ、これから祈ろう」というエネルギーが必要になる場合も多い。それゆえに祈りは「聖なる崇高な労働」と言える。
フォーサイスは、祈りそのものが神様の賜物であることを我々に教える。我々が祈りに導かれているということは、すでに我々が神様の導きの中にいるということである。祈ることが神の意志だからである。神は我々のうちに祈りを創造してくださる。最初はつたない祈りでも、神がだんだんとご自身の求めたもう祈りへと導き完成してくださる。
祈りは、そのまま聞かれるとは限らず、拒絶される思いをするときもある。しかし神は必ず祈りを聞いておられ、最善を為してくださる。我々は後になって必ず、「神はあのときの自分の祈りを聞いておられたのだ」と、恵みを知るようになるのである。
祈りは神の祈りに対する応答である。神がまずわたしたちの救いを祈っておられる。我々が神を動かそうとするのではなく、神のその祈りに気づかされ、祈っていくことが我々の応答としての祈りである。その中で神の憐れみ、恵み深さに気づかされていくとき、我々は神を賛美するようになる。
神は、我々の心が神に向かうことを願っておられる。祈りは信仰を建てあげる手段ではなく、キリスト者の生活そのものが祈りである。祈るためにキリスト者の生活があるのである。神は「悩みの日には我を呼べ」とおっしゃって下さる。喜びのとき、必要なときばかりではなく、祈ることが信仰生活なのだということを、フォーサイスは我々に示す。
フォーサイスは「祈りが失敗する理由」についても語る。我々の祈りが失敗するのは「祈りを中断するから」である。我々はどんな時にでも神の前に立ち続けることをやめてはならない。神は苦しみや悩みを通して、祈る者として我々を導いてくださるからである。それを知らずに失望し、祈りをやめてしまうとき、我々の信仰は崩れ壊れていく。どんな時にも、祈るところに神はいつも共にいてくださるという希望を、フォーサイスは語るのである。