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2009年5月17日「生涯の日を数えよ」

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章10節)

 「目覚めていても眠っていても」とは、信仰に目覚めていて、信仰を与えられて良かったと言える時も、信仰が「ふるい」にかけられて、信仰が無くなってしまったと思える時も、「どんな状態にあっても」ということである。どんな状態にあっても、私たちは「主と共に生きるようになる」。これが私たちを救いに定められた神の決意である。この神の決意、神の約束は、私たちが現在どのような状態にあるかは全く無関係であるということである。このことは、なんと大きい慰めであろう。この神の決意は、「キリストが私たちのために死なれた」ことに根拠がある。

 神が遣わされた救い主キリストは、僕の姿をとり、死の深みまで、私たちと同じところに身を置いてくださった方である。「主は、私たちのために死なれた」とは、キリストが私たちの存在の最も低いところまで来てくださった方であるということである。それゆえに、キリストは人間の弱さ、人間の罪に対して、共に悩み、共に苦しむことができるのである。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)。

 主イエス・キリストは、私たちと共に生きてくださっている。生きてくださろうとし続けておられる。そのことは、私たちが目覚めているにしろ、眠っているにしろ、私たちの根底を支えてくださっているということである。私たちの不信仰の罪、私たちが犯したどんな罪も、これを上回る主イエス・キリストの臨在、「神、共に在す」というインマヌエルの事実こそ、私たちを救いに定められた神の決意であり、神の恩寵である。この神の恩寵が、バプテスマを受けてキリストに結ばれた者に約束されているのではないか。;;”242″

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