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2009年5月13日

 「再臨」「終末」というものは、我々に恐れや不安を抱かせるイメージで語られることが多い。しかし、パウロはこのことで徒に恐れ不安になることはないと励ます(5:4)。神の子とされている者にとって、終末は「破滅」のときではないからである。キリスト教の終末論は、神の救いが成就する喜びの日である。人を脅かしたり絶望させるものではない。

 そして我々はその時が到来するのを「身を慎んで」(5:6)待たなければならない。この言葉は「素面でいる」(岩波訳)などとも訳される言葉であるが、「終末が近い!」と熱狂的になり、仕事をおろそかにするようなことなく、落ち着いて与えられた各々の仕事に当たっていくことが求められている。

 「昼に属する」(5:8)者、すなわち神により「光の子」とされた者は、「信仰と愛」、「信仰による希望」(5:8)の生活を続けていく。キリスト者はこの世から遊離して生きるのではなく、この世で与えられた責任、使命を自分の肩に担って生きていく。たとえそれが厳しい現実であれ、それでも生きていくのがキリスト者である。「信仰と愛」の「胸当て」、「希望」の「兜」(5:8)は我々をこの世の誘惑や攻撃から守ってくれる防御の武具である。これらは自分の努力によって自分で付けるものではない。「着け」「かぶり」という表現からは、何かそのようなニュアンスを受け取りやすいが、むしろ「着けているのですから」「かぶっているのですから」という表現のほうがふさわしい。神がこれらのものを我々に着せ、かぶせてくださっているのである。

 「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのでした」(5:9)。神の計画は怒りではなく我々に救いを得させることであり、それは主イエスが我々のために死なれ復活されたという事実のゆえである。

 「お互いの向上に心がけなさい」(5:10)という勧めの言葉にある「向上」とは、別の箇所で「教会を建てあげる」と訳される言葉と同一である。パウロは、励ましあって教会を造り上げていくことを勧めるのである。励ましあう、すなわち「牧会」のわざは、一部の特定の信徒だけの仕事ではない。牧会のための賜物を持ったすべての信徒たちの仕事である。

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