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2009年4月26日「われら主によりひとつ」

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(コロサイの信徒への手紙3章15節)

 教会は全く神のものであると同時に、全く我々人間の集まりでもある。この全くバラバラの者たちは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容(12節)、忍耐、赦し(13節)によってつながれ、愛のきずな(14節)によって覆われひとつのものとして完成させられる。これらのことは、人間の努力では生み出すことができない。パウロはしばしばこのような徳目に言及し、それを「御霊の実」と表現した。キリストのみが我々の中にこのような実りを下さるのであり、我々はそのことに希望を置き、祈り求めることがゆるされているのである。

 我々が自らの努力や能力、魅力でもって「教会」という共同体を一つに保とうとするなら、その試みは必ず失敗に終わる。「教会」はそれほど生ぬるいところではない。恐らく一生関わりあうことがなかったはずのお互いが、何故だか集められているところが「教会」である。集めて下さっているのはイエス・キリストであり、この方しか我々を「ひとつ」にすることはできないということを常に覚えなければならない。

 16、17節の言葉は、全体としての教会、同時に教会の中にあるそれぞれのグループのあるべき姿を描き出している。キリストの御言葉に促されるとき、我々は教えあい諭しあう勇気と謙遜を頂く。御言葉に基礎を置く交わりは、我々を賛美と礼拝へと押し出す。この一連の箇所で注目すべきは「互いに」(13、16節)という言葉である。我々は一方的に教え込まれたり、一方的に我慢したりするのではない。共に御言葉に育てられる者たちはその時々に応じて「互いに」務めを果たしあう。このような関係は、何か他の原因や理由によっては成り立たない。まことに、我々は主イエス・キリストにおいてのみ「ひとつ」なのである。;;”264″

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