「彼らは、おとめなるわが民の破滅を手軽に治療して 平和がないのに『平和、平和』と言う。」(エレミヤ書8章11節)
本日取り上げた箇所は、南ユダ王国が破滅を迎える寸前の民に向けて、エレミヤを通じて語られた神の言葉である。神は、神と人々の関係が不自然なものになっていることを嘆かれる。人は悔い改めて神のもとに立ち返るどころか、「馬が戦場に突進するようにそれぞれ自分の道を去って行く」(6節)。「戦場の馬」とは、罪の持つ恐ろしい力を的確に言い表すたとえである。罪の力というものが我々の理性を超えた制御不可能なものであるということを、深く恐れる必要がある。
当時の宗教指導者たちは「我々は律法を十分理解する賢者であり、預言者からとやかく指図される存在ではない」と思い上がり、今語りかけられる神の言葉を侮った。民は「我々は神に選ばれ律法を所有する者だ」というところで満足し、やはり真剣に神と真剣に向き合わなかった。神の側の切実さと、それを知ろうとしない民の愚かさは対照的である。
これらの神の嘆きは、我々に対しても向けられている。主イエスを信じて従う者の生涯は、決して無風のものではなく、離れては引き戻され、悔い改めるというところを繰り返す。それが神の恵みに慣れ、罪に対して心が鈍くなるとき、我々も「我々は賢者と言われるもの」と思い上がる。いつの世も、神の言葉を侮るものは「恥を受け、打ちのめされ、捕えられる」(9節)。11節も我々にとって耳の痛い言葉である。我々の周りには痛み崩れる部分があるにも関わらず、それが「見なかったこと」「なかったことに」にされている現実がある。神はどうしようもない者たちをも最後まで「わが民」「おとめなるわが民」と呼び、最後まで「集めようと」して下さる。その招きにこたえ、悔い改め、翻って生きる我々を、神は待っておられる。;;”264″