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2009年3月15日「母のように、父のように」

兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。(テサロニケの信徒への手紙一2章1節)

 パウロたちはテサロニケに行き伝道した。そして、テサロニケ教会が誕生した。しかし、キリストの福音に反対するユダヤ人たちの中傷と妨害が続いた。この厳しい状況の中で、パウロは子供を育てる「母親のように」人々に福音を語り、新しい信徒たちには「父親のように」、キリストを信じる者にふさわしく生活するようにと教え、強く勧めた。

 ユダヤ人たちがテサロニケ教会であるヤソンの家を襲撃し、しかも、ローマ当局に「彼らは皇帝の勅令に背いている」と訴えるに至って、迫害がひどくなった。パウロはテサロニケ教会のために、もっと留まっていたかったが、そこを離れざるを得なくなった。

 パウロはテサロニケを離れた後も、心配だった。キリスト教に対する反対や迫害の中で、信徒たちが信仰生活から離れてしまうならば、「自分たちの労苦が無駄に」なってしまうという心配だった。ところが、テサロニケの信徒たちは信仰にしっかりと踏みとどまって、礼拝を守り、信仰の業をなし、神に望みを抱いているという嬉しい報告がもたらされた。パウロは喜び、テサロニケ教会の信徒たちに宛てた手紙の中で、冒頭の言葉を語った。

 「無駄ではなかった」と知って喜び、神に感謝したパウロであるが、その前まで、「無駄ではなかったか」という思いであったのだろう。私たちも主の業に励むことが、「無駄ではないか」という思いになることはないか。信仰に理解のない社会にあって、主の業に励む信仰生活は易しいことではない。日曜日の礼拝を守る、福音宣教のために献金を捧げるという主の業が、効果もなく報われない時、無駄だと思うことはないだろうか。

 しかし、このような誘惑に抗して、主に結ばれているならば、無駄だと思える主の業が、神の無償の愛を証する業であり、神は私たちを神の働きに参加させて、私たちに救いの確かさを与えてくださるのだということが分かるであろう。神はパウロを通して、目先の成果に捉われ、動かされる私たちに語られる。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(Ⅰコリント15・58)。;;”291″

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