実際にパウロの伝道は「苦しめられ、辱められた」(2節)経験の連続であった。正式な裁判も受けられずに投獄され、鞭打たれるようなことが何度もあった。そのような傷が回復しないうちにパウロはテサロニケでの伝道に力を尽くした。するとユダヤ人たちの反対や妨害はテサロニケにまで追いかけてきた(cf. 使17:1-9)。その事情をパウロは「激しい苦闘」(2節)と表現している。しかしそのような中でもパウロは「わたしたちの神に勇気づけられ」「神の福音を語った」(2節)。この大胆さはパウロ個人の生来の気質ではない。パウロも我々も、復活の主を証言するときに、神にある大胆さを与えられるのである。
当時、各地を巡回する教師、哲学者、役者、音楽家が数多く活動していた。彼らは自らの名声を広めるために「巡回」という方法を取っており、実際にそれを成功させた者も多かった。パウロにとって、自分の伝道が彼らの活動と同じように見られることは心外であり、自身の働きを否定されることのように思えた。それゆえに、人を惑わし(「迷い」)、不当に収奪し(「ごまかし」)、自分を誇示する(「不純な動機」)ことと自身の宣教の働きは全く違うということが3節で主張されているのである。伝道は自分を高め利益を得るためになされるものではなく、「神に認められ、福音を委ねられている」(4節)からなされるものである。
そのような意味で、パウロは「キリストの使徒としての権威を主張することができた」(7節)と言う。「使徒」とは12使徒のみを指さない。神から福音宣教を委ねられた者はすべて「使徒」なのである。しかしパウロはその権威を強硬に主張せず、信徒たちの中でかえって「幼子のように」(7節)ふるまった。この部分は意味が解りにくい。「幼子のように素直に謙遜に」と理解することも可能であるが、一方でギリシャ語の「幼子」と「やさしくふるまう」という語が一文字違いであることから、写本を作成する段階で「やさしくふるまう」が「幼子」と誤記された可能性も考えられる。
パウロは福音宣教を委ねられた者がその働きに専念するために、信徒から経済的支援を求める権利を認めている(cf. Ⅰコリ9:3-14)。しかしパウロは信徒たちに経済的な「負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら」(9節)自給伝道者として働きを続けた。今日でも、伝道者には生活を支えるための多様な選択肢が与えられている。
それでもパウロは前述のとおり、パウロの働きを快く思わないユダヤ人たちから激しい中傷を受けた。5節の「相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったり」という文言は、そのような中傷の一部であると思われる。パウロが「どれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか」(10節)ということを、神が知っていてくださるということに加え、テサロニケの信徒たちも知っており証言してくれるということは、パウロにとって大きな慰めであった。
この箇所でパウロは「母親」(7節)、「父親」(11節)など、家族関係の比喩を多用している。教会がまさに主にある「家族」だからである。パウロは信徒たちに、「信じる」だけではなく「神の御心にそって歩む」(12節)ことを教えた。そしてキリスト者の究極の目標が、神の御国と栄光にあずかることであり、そこに究極の希望があるのだということを教えた。