「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)
パウロは、御子によって人の罪を贖い、神の子とする神の救いについて詳しく述べてきた。12章からは、救いにあずかった者たちに対する生活の勧めである。この勧めは「神の憐れみによって」(1節)、すなわち、これまで語られた神の救いに基づいてなされる。その第一が、今日の聖句にある礼拝の勧めである。礼拝は、自分の体を神の前に持ち運んで、差し出すことである。礼拝が説教を聞くことだけならば、説教集を読めば良い。「自分の体を献げる」とは、「あなたはどこにいるか」(創世記3:9)という神の問いに、「私はあなたの前にいます」と答えることである。キリスト者は、週の初めの日曜日に、皆がそろって集まり、「私たちはあなたの前にいます」と言って神を礼拝する。ここに、神を天の父と呼ぶ神の家族である教会が見える形で現わされる。
「神に喜ばれる・・・いけにえ」とは、私たちを神のものとしてくださった神の恵みに応えて、喜んで自分の体を神に捧げる礼拝である。「聖なる」というのは、罪のない体という意味ではなく、「私の体は神のものです」という信仰を言い表す礼拝である。「生ける」というのは、形式的な礼拝でなく、神への感謝と喜びを表す生き生きした礼拝である。このように礼拝する民(教会)を通して、神は救いの御業を現わされる。私たちは礼拝において、神から新しい力をいただき、神との関係を強められて、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」(2節)を教えられて、一週の生活に遣わされる。;;”303″