「・・・主があなたたちをお選びになったのは、あなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである。」(歴代誌下29章11節)
ヒゼキヤが王として最初に行ったことは、「主の神殿の扉を開いて修理」することであった(3節)。ヒゼキヤは、前王の時代に破壊されたまことの神礼拝が再び再開されることを高らかに宣言したのである。
しかしながら、礼拝の準備をヒゼキヤ一人ですることは到底不可能であった。ヒゼキヤは祭司とレビ人を集め、礼拝の回復と再開のために共に働くよう呼びかけた。まず立ち上がったのはレビ人のグループであった。レビ人の中には礼拝の奉仕における様々な役割分担があり、その仕事は目立つ華々しいものではなかった。しかし、礼拝の整えのためにヒゼキヤの呼びかけに応えて立ち上がったのは、まず彼らだったのである。
祭司とレビ人はそれぞれの持ち場を責任を持って整えた。しかも、彼らの仕事は「まことの神に礼拝をささげるために」という目的において見事に結び合わされたものであった。驚くべき速さで礼拝の準備は整い、人々は感謝と悔い改め、賛美と献身の決意に満ちた礼拝をささげることができた。
すべての礼拝者は、神の目的のために神によって選び分かたれ、用いられる存在である。その事柄を表現するのが「聖別」という言葉である。我々は神の目的のために礼拝に召されている。身の引き締まるようなこの事実を今一度受け取りなおしたい。
礼拝の整えのために、レビ人は祭具を全て揃えて清めた。我々のなすべき礼拝の整えは何か。生活環境の違いや奉仕の種類により、その在り方は多様であろうが、すべての礼拝者にとって、「祈り」から礼拝へ向かうすべての備え、整えが始まっていくことを覚えたい。;;”271″