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地域と共に歩む桜並木の教会

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2009年10月13日

 

 ところで、ヨシュアがモーセを継いでパレスチナに入った頃(紀元前1225年頃)のエリコはどのような状況にあったのであろうか。紀元前1300年以降、エリコにはほとんど居住者がいなかったと言われている。つまり、ヨシュアが入る前に破壊されて廃墟同様になっていたと考えられるのである。そして紀元前800年代にエリコの街は再建された。

 ヨシュア記には「いろいろな街に入っていって攻め落とした」「そこの人たちを皆殺し(聖絶)した」ということが度々描き出されている。「神は本当にこのようなひどいことを命じるのだろうか」「旧約の神は新約の神と違うのではないか」という疑問が呈されるのは当然のことのように思われる。

 当時、実際に軍事的な侵略活動を行っていたのはイスラエルだけではなかった。一方、ヨシュアに率いられたイスラエルの人々は、ヨシュア記に書いてあるほど激しい戦争をして土地を侵略したのではない。前述のとおり、エリコの場合もイスラエルが入っていた時点で既に廃墟状態だったような土地である。どんどんヨシュアが先頭に立ってカナンを侵略したのではなく、かなり長い期間をかけて定住していったと考えるほうが正当であろう。イスラエルは海側の国家(ペリシテ人など)の勢力が及ばない山地に拠点をおいて、土地を開拓し、徐々に支配地域を広げていったと考えられる。そしてダビデ、ソロモンの統一王国時代にはかなりの土地を所有するようになっていたのである。

 なぜ、紀元前1200年代にイスラエルの人々はパレスチナ近辺の土地に入ることができたのであろうか。この時期のパレスチナは「力の真空状態、不安定の時期」と表現される。当時、ヒッタイト人(「ヘト人」・・・ヨシュア1:4)がパレスチナに侵入し支配していた。それ以前はエジプトのラメセス2世がパレスチナを支配していたが、ヒッタイト人との戦いに負けて、エジプトを守ることに全精力を注ぐようになった。つまり、エジプトは地中海周辺の諸都市の支配からこの時期に手を引いたのである。しかしながらヒッタイト人たちもまた、この地域における支配権を放棄せざるをえないような状態になっていた。そのような状況下で、イスラエルの人々はそれほど激しい軍事的攻撃をすることなく「力の真空状態」であった「約束の地」に入っていくことができたのである。

 旧約聖書の歴史書は単なる歴史的文書ではない。口頭の伝承などが編集され、ひとつの「信仰告白の書」になったものである。その「信仰」とは、「神が自分たちの父祖たちに約束をされた土地が、様々な歴史的経過の中で与えられた、そして自分たちは今、その約束の土地にいる」「約束を成就された神を信じて生きることで、自分たちはすべてに打ち勝つ」という「信仰」である。しかし「すべてに打ち勝つ」には、「ただ、強く、雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない」(ヨシュア1:7)という「条件」がある。神のみわざに信頼して、神から与えられた約束を守っていくことがイスラエルの人々の務めであった。「その約束と神の御心から反れていくなら神から裁きを受ける」ということも、また彼らの「信仰」であった。 いくら当時のパレスチナが不安定な状況であったとしても、新しい地に入っていくのはイスラエルの人々にとって大きな冒険であることに変わりはない。しかし彼らには「神が先頭に立って導いて下さる」という信仰があった。 ヨシュア記6章には「エリコの陥落」の記事がある。その場面でも、まず祭司たちが「契約の箱」を持って先頭に立った(ヨシュア6:6)。「あくまでも自分たちのカナン定着は神の先立つ導きによるのだ」という「信仰告白」である。我々はこのような聖書の性格をおぼえ、聖書の記述には「歴史的事実」とは読めない部分もあるのだということを受け入れなければならない。 

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