わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピの信徒への手紙 4章13節)
だれでも贈り物をもらうことは嬉しい。パウロはフィリピの信徒たちの贈り物に対して、「主において非常に喜びました」(10節)と言う。「主において」と言うのは、その贈り物に主に結ばれた彼らの愛が示されているからである。そして何よりも、その贈り物によって、彼らがパウロの伝道の働きに共に参加してくれたからである。
パウロは、喜びの表明が、再度、贈り物を要求していると誤解されないために、「物欲しさにこう言っているのではありません」(11節)と断った上で、「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(12節)と言う。
ここには、境遇に捉われないパウロの自由な生き方が示されている。当時、ギリシャのストア派の哲人たちも、外的環境に左右されない人間の内的自由を語り、これを得るための精神的訓練を説いた。しかし、パウロの場合は、これを精神的訓練(修行)によって得たのではない。冒頭の言葉で語るように、「わたしを強めてくださる方のお陰で」(13節)ある。この自由は、主キリストが与えてくださるのである。ここには、内的自由は精神的訓練とか努力によって得られるものではないという人間の弱さ、無力の告白がある。自分の弱さを認めて、主キリストを信じるならば、キリストは私たちを強めて、私たちがどんな境遇にも満足し、これに対処する秘訣を与えてくださる。
パウロの言う「満足」は自己満足ではない。貧しくても、裕福でも、神に捧げることができる生活、隣人に与えることができる生活である。「善い業」(Ⅱコリント9章8節参照)に富む豊かな生活である。この「満足」は、どんな境遇に置かれても、キリストが私の人生の最後の責任者であると信じるからである。貧しさにも、裕福な状態にも処する道を得るためには、私たちは神を信じなければならない。;;”278″