2026年8月23日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙 2章6〜11節
「かえって自分を無にして、僕の身分になり」
フィリピの信徒への手紙2章7節
インドに伝わる猿の捕え方があります。口の細い壺に木の実を入れておく。猿は手を差し入れ、実を握りしめる。握った拳は、その細い口を通りません。手を開けば抜けるのに、放さない。猿を捕えているのは壺ではなく、猿自身の手です。「固執する」(2:6)はギリシア語でハルパグモス、「強奪」「分捕り物」を意味する言葉です。まだ持たぬものを奪うにせよ、すでに持つものにしがみつくにせよ、手の形は同じ、握りしめた拳です。キリストは神と等しくあることを、まことにご自分のものでありながら、分捕り物とはされませんでした。
今週の聖書教育はサムエル記下6章。ダビデはエルサレムを陥れ、神の臨在のしるしである「神の箱」を、自らの足もとへ運び入れます。牛車が傾き、支えようとしたウザが打たれて死ぬ。テキストは、この失敗の責任はウザではなくダビデに帰されるべきだと記します。神の託宣も、祭司や預言者の意見も求めず、独断で進めた事業でした。箱をつかみ、王座をつかみ、人をつかむ。ダビデの手は、開いていません。
「自分を無にする」(2:7)はケノオー、空にする、という言葉です。あの物語の終わりにも「空っぽ」が出てきます。踊るダビデを窓から見たミカルは、彼を「空っぽ、軽薄」と蔑む。ダビデは「自分は神の前に軽くなる」と答え、妻を言い負かしました。信仰の言葉として、非の打ちどころがありません。けれどもその正論は、関係を変えるためにではなく、相手を軽んじる根拠として働きました。「信仰」が「自分の正当化」になるとき、へりくだりは偽りになります。
キリストのケノーシスは、言葉ではありませんでした。何ひとつ自分のものを持たぬ僕となり、最も辱められた十字架の死にまで降られた(2:8)。ミカルが投げつけた「軽い」という場所に、この方は実際に立たれたのです。十字架で叫ばれたのは詩編22編、傷ついた心の祈りでした。聖書教育は「小さな声と神の沈黙」と題し、その沈黙が小さな声に寄り添っていると記します。窓辺にひとり立つ人の側に、神はおられます。
「このため、神はキリストを高く上げ」(2:9)。上げられたのは、自分を高くした王ではなく、自分を無にした王でした。しかも上げたのはご自分ではなく、神です。私たちが握りしめるのは恐れているからで、その恐れを解くのはキリストの完全な愛だけです(1ヨハネ4:18)。握りしめた拳では、握手ができません。納めた剣を打ち直して鋤とする(イザヤ2:4)。平和月間のこの月、握りしめた指を今日ひとつ、ゆるめてまいりましょう。