わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。(フィリピの信徒への手紙1章10節)
私たちは神を信じるようになって、何が変わったのか。神との関係が変わったのである。今までは、神に背を向けていた人間が、神に顔を向けて生きる人間になったのである。私たちに注がれる神の愛の中に生きるようになったのである。神は御子キリストの十字架の死による贖いのゆえに、赦される資格のない私たちの罪を、無償で赦してくださった。私たちは神を信じ、キリストの贖いの恵みにあずかった「最初の日から、今日まで、福音にあずかっている」(5節)。すなわち、私たちの罪を赦し、神の子供として取り扱ってくださる神の愛の中に生かされている。
それゆえに、私たちは神をほめたたえ、礼拝する。礼拝は、神の愛に答える私たちの最高の行為である。神の愛に答える次の行為は、神の愛を隣人に証しすることである。証しする、伝道するというと、何か特別な行為と思うかも知れないが、家族や友人など、日々の生活の中で出会っている人々を、「キリストに愛される者として、愛していこう」とすることが、「証し」であり、伝道である。
そこで気づかされるのは、私たちの愛の限界である。愛のつもりが、人を傷つけ、甘やかし、阻害してしまうという経験をする。パウロが言うように、愛は「知る力と見抜く力とを身に着けて、・・・本当に重要なことを見分けられる」(9、10節)愛でなければならない。このような愛は、私たちの中からではなく、「神から出る」(Ⅰヨハネ4章7節)。相手を知り、何をすることが重要であるかを見分けられる愛は、聖霊の主キリストが与えてくださる「聖霊の実」(ガラテア5章22節)である。だから、愛は神に祈り求めなければならない。主イエス・キリストは「求め続けよ。そうすれば与えられる。・・父なる神は、求める者に聖霊を与えてくださる」と言われる。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる」(6節)
私たちの内に救いの業を始めてくださった神は、キリスト・イエスの日までに、私たちを神の愛にふさわしい者にする善い業を完成してくださる。私たちキリスト者は、終りの日に、神の善い業が完成される「神の国」を待ち望みながら生きる。;;”262″