55章は神による「普通ではない招き」のメッセージから始まる。渇く者、飢える者は誰でも、神の御許に招かれている。「水」「穀物」「ぶどう酒」「乳」(55:1)という言葉が重ねられ、神のもとにある圧倒的に豊かさが表現される。招きに応じる者は、「値を払うことなく」(55:1)神からの豊かな贈物を受ける。神の「招き」は、「祝宴」にたとえられることが多い。イエスも「婚姻の祝宴のたとえ」(マタイ22:1−10)を語られた。その中でも語られるように、招きに応じない者が大勢いる。神の招きのうちに入れられない条件があるとするならば、それは「招かれた者が拒む」ということだけなのである。神の招きと愛は、常に我々に開かれたままになっている。
神の契約は、ダビデ王家の滅亡によって頓挫したのではない。今や、イスラエルを含みつつイスラエルを越えて、神の救いの永遠の契約が明らかになる。時代を越え民族を越え、我々は神に招かれる者とされた。
我々は神を「尋ね求めよ」「呼び求めよ」と促される(55:6)。それはあるかないか分からないものを闇雲に探し出そうとすることではない。神が示される確実なものを認め、神が示されるところへ喜んで出て行こうとする信仰の決意が求められている。そして神を信ずる者は、礼拝の共同体の交わりの中で、共に、またそれぞれに、神に大胆に呼びかけていく。神が確かにおられるということが、礼拝において示されるからである。
「天が地を高く超えているように わたしの道は あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている」(55:9)。神のご計画は我々の思いをはるかに超えて尊い。我々には神の真実を捉え、それ以上のものを提示し、神に対抗する力がない。ただ、自身の有限を思い知り、神が備えてくださる道を進み神の御心に従いたいと願うのみである。
続いて「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(55:10−11)という美しい約束の言葉が与えられる。近く狭いところしか見えない我々の眼には、神のメッセージがいくら語られても、実りは少なくむなしいように映る現実があるかもしれない。しかし、神は力強くこのように約束される。聖書を通じて届けられる神のメッセージは、この時代にも必ずその「使命」を果たすのである。
55章は、時が満ち、神の救済の計画が完成される時の生き生きとした描写で閉じられる。神の御業の完成は、ただ神が成就されるものである。その時我々は、ただ心を喜びで躍らせ、賛美の声を高らかに響かせていく。それは人間だけのわざではない。その時、我々は神が造られた全ての被造物と手を取り合い、共に喜び賛美する。「茨」「おどろ」(別訳では「いらくさ」)に代わって常緑の「糸杉」「ミルトス」が生える(55:13)。神の救いの約束は、「死とのろい」は「永遠に常に新しくされるいのちと希望」に代えてくださる。このような素晴らしい計画の中に何の条件もないままに招かれている我々であることを、感謝して歩みたい。