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2008年9月21日

生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。(フィリピの信徒への手紙1章21節)

 

 牢獄にいるパウロは、遅かれ速かれ死ぬべきことを思い、冒頭の言葉で、自分にとって生きること、死ぬことをどのように捉えているかを語った。

 「生きるとはキリスト」とは、自分はイエス・キリストによって生きている、ということである。キリストはこの地上でご自身を現わし、働かれたように、今、聖霊として生きて働かれる復活の主である。私たちがイエス・キリストを主と信じるならば、キリストは私たちの内に生きてくださる。キリスト者とは、キリストの愛の中で生かされ、その愛に応えて生きようとする者である。キリスト者にとって、生きるとはキリストであり、キリストのいない人生は無力であり、無意味である。

 パウロは「死ぬことは利益」と言う。なぜか。本来、死は嫌な、避けたいものである。私たちは死に対して本能的な怖れを持っている。それは、神の裁きへの本能的な怖れであると言われる。私たちは悪いことをすると、誰から指摘されなくても、内なる良心が犯した罪を責める。良心は私たちの内にあるが、私たちの自由にできない。神は人間に良心を与え、「殺すな、盗むな」という神の戒めを刻まれた。良心は人間が神の戒めに責任を負うべき存在であることを示す。私たちは意識せよ無意識にせよ、神の裁きを感じて本能的に死を恐れる。

 しかし、神に感謝しよう。神は御子キリストの十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださった。私たちはキリストとその死による贖いを信じて、罪を赦され、神に義とされた。それゆえ、死はもはや恐れではなく、この世の営みから解かれて、神の御許に行くことである。それを思えば、死ぬことは喜ばしいことである。

 パウロは生よりも、死のほうを願う気持ちが強い。だが、この地上にとどまることは「あなたがたのために必要である」とパウロは言う。パウロにとっては、自分が他者のために必要とされているから、まだ神に生かされているのである。この地上に生きている限り、神から与えられた天職がある。パウロは、「あなたがたの信仰を深めて、喜びをもたらす」ことを天職と受けとめて、牢獄に囚われの不自由な身でありながら、教会の信徒たちのために祈り、手紙を書き送り続けた。;;”273″

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