「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)とはどういう意味であろうか。まず、「生きるとはキリスト」とは、自分がキリストに生かされ、キリストのために、キリストがあがめられることを願いつつ生きているということである。
そして「死ぬ」ことは、他の人にとってみれば「損なこと」「恐ろしいこと」「逃れたいこと」かも知れない。しかしキリストに救われた者は「死」によってキリストの全き支配の中に入れられる。よりキリストに身近な天の故郷に入れられる(cf.Ⅰコリント13:12)。このように確信するパウロにとって、まさに「死ぬことは利益」なのである。
なぜ、人は「死」を恐れ厭うのであろうか。
①人は自分の罪の責めを心に持っており、「死を迎えたときに自分は神の前に立てるのであろうか」という不安を無意識のうちに持っているから。神が我々の内に神の御心をキャッチするために備えられた「良心」と、同時に「人生を振り返ると後悔ばかり」という「罪意識」が、主なる神を恐れさせるから。
②人が「死において全てが終わる」と感じるとき、その事に対する悲しみが生じるから。
しかし、神を信じる者は「キリストが罪を贖って下さり、終わりの日に迎えに来られ御国に招き入れて下さる」という希望を頂いている。「地上の幕屋」が壊れるとき、「新しいからだ」を頂き「新しい交わり」に生きるようにされるという希望を頂いている。
「キリストに結ばれて生きる」ことも、「キリストに結ばれて死ぬ」ことも、両方素晴らしいことである。どちらがより優れているということは言えない。その両方はどのような意味を持つのであろうか、とパウロは問うのである。
「肉にとどまる」(24節)とは「地上で生きる」ことを意味する。そしてそれは、「他者のために、他者に仕えるために生きる」ことである。ひとりひとりに与えられた「天職」は異なる。しかし共通するのは、「他者のために生かされているという意味を与えられている」点である。「必要としてくれる人のために生きよう」ということが、「愛する」ことである。それが神に与えられた「生きる意味」である。
パウロはそのことが「あなたがたのためにもっと必要」(24節)であり、それを「実り多い働き」(22節)と感じていた。パウロにとっては、諸教会の信徒の信仰が深められ、彼らが主にあって喜んで生きることができるように仕えることに「生きる意味」があった。だからこそ、獄中という不自由と不安の中にあっても諦めることなくたくさんの手紙を書き送った。パウロは自分のできるところで精一杯、他者のために生きようとしたのである。