なぜパウロはこのように感じたのであろうか。ひとつは「わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」(1:13)、すなわちパウロが牢獄に入らなければキリストの福音に触れることがなかったかも知れない人々に、パウロは証しをする機会を得たということがその理由である。もうひとつの理由は「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(1:14)ことである。
13節の「キリストのため」、14節の「主に結ばれた」という言葉は、元々「キリストにおいて」「キリストの中にある」という意味を持つ。ここにパウロのキリスト者理解があらわれている。それは「キリストの支配の中に生かされているのがキリスト者」という理解である。
さて、パウロは「ねたみと争い」(1:15、「争い」は口語訳では「競争心」)の念にかられ、「自分の利益を求めて」(1:17、口語訳では「党派心から」)伝道をする者がいることを知らせる。最初は純粋な動機から始まった伝道であっても、伝道する者は常に「ねたみ、競争心、党派心」に陥る危険にさらされる。しかしパウロは「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます」(1:18)と続ける。福音は、それを宣べ伝える者の誠実さや立派さに依存しない。キリストご自身は、キリストを伝える者よりもはるかに偉大である。我々の弱さ、罪深さを超えて、福音は広がっていくのである。
福音を伝えようとする者は、常に「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」という19節の言葉に立ち返らなければならない。我々は伝道するとき、「自分がこれだけやったのだ」と誇ったり、反対に「いっしょうけんめいやっているのに、どうして成果があがらないのか」と落胆したりする。しかし、神が先立って福音の前進を成し遂げてくださるのであるから、我々はいたずらに誇ることも卑下することもする必要がない。同時に、我々は「神が為してくださるのだから、自分は何もしなくてもいい」のではなく、また「無鉄砲」に福音を語ればよいのでもない。我々は神に聴き、祈り、語る相手との関係に思いを寄せつつ、与えられたところで精一杯証しすることを求められているのである。