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2008年8月27日

 その後の王たちの状況と政治は混迷を極める。エジプト王ネコ2世はヨアハズ王に代えて、自らの意向に従うであろうヨヤキム(エルヤキム改め)を王に据える。ヨヤキム王はエジプトに忠誠を尽くす一方、国内に対しては圧政をしいた。その後、エジプトに代わり新バビロニアが勢力を増すと、ヨヤキムはすぐさま新バビロニアへの臣従を表明し、自らの王位を保とうとした。しかしヨヤキムは後に新バビロニアに反旗を翻し、ネブカドネツァル王に討たれるという結末を迎える。このような流れの末、紀元前597年に第一回目の「バビロン捕囚」が実施され、新王ヨヤキンらは捕囚として捕らえ移される。エゼキエルもこの時、捕囚民の一人であった。そして預言者としての召命を受け、20年以上にわたり活動した。

 この時点では、まだ南ユダ王国自体が完全に壊滅したわけではなかった。それゆえ、捕囚民たちにも「祖国に帰還できるかも知れない」という楽観的な期待が残っていた。南ユダ最後の王ゼデキヤが独立を求め反乱を起こしたが、紀元前587年にネブカドネツァル王により首都エルサレムは陥落、神殿も破壊され、ここに南ユダ王国が滅亡した(cf. 歴代誌下36章)。

 エゼキエルの預言は、このような時代背景に対応している。第一回バビロン捕囚の時、イスラエルの民は様々な思いの中にあった。「これ以上の罰は下らないだろう」「自分たちは神の民なのだから大丈夫だろう」「先祖たちの罪のためにこのような目に遭わされている自分たちは不幸だ」。エゼキエル書の前半の預言は、このように自ら悔い改める姿勢を見せない民を激しく批判し、神の厳然たる裁きと神殿の破壊を指し示すものである。

 そして前述のとおり、彼らの宗教的拠所であった神殿は破壊され、祖国は滅亡する。捕囚の民は、今度は非常な絶望の中に突き落とされた。もはや希望はなく、自分たちは死に引き渡される運命であると彼らは崩れ落ちた。エゼキエル書の後半の預言は、このように絶望のどん底で打ちのめされた民に対し、彼らが神へ立ち返ることを切望し、再び生かして下さる神の愛と意志を指し示すものである。

 37章1−14節も、この後半部分の預言に属する。祖国と神殿を失い、生きる希望と気力を失い、もはや生ける屍のようになった「イスラエルの全家」(37:11)が、この「枯れた骨」(37:4)の山である。そして神が「霊を吹き込む」(37:6)と、彼らは再び生かされる。神の生命の息が吹き入れられると、どんなに人の目に絶望的な状況にあろうとも、人は再び生かされるという力強い約束を、今日の我々も頂くことができるのである。

 祭司の家系出身であるエゼキエルにとって、「神」は気安い存在ではなく、全く聖なる存在であった。神の聖性と義は、人間の罪をいい加減にごまかしたままにしておけない。そこに厳然たる裁きが行われるという認識がエゼキエルの中に存在した。

 同時に、エゼキエルにとって「神」の愛と赦しは尽きないものであった。神は御自分を離れて死へと赴く人間が誰一人としていないよう願って下さる。そして、罪を悔い改め、翻って神を信じ従う者に赦しと救いを下さる。真に「生きる」者として新たにして下さるのである。

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