わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。(創世記26章24節)
イサクは父アブラハムと同様、遊牧民であったが、神への信仰に生きた人であった。飢饉の時、彼はペリシテ人の王アビメレクのもとに身を寄せた。その地で豊かになった時、彼は妬まれ、その地を出て行かねばならなかった。行った先々で井戸をめぐる争いに巻き込まれた。いつの時代も、生活資源の確保をめぐって人は争う。
その度にイサクは争いを避けて、他の地に移った。争わないことは惨めな生活を強いられることになるが、イサクは徹底して争いの場から身を退いた。さすらい続けてベエルシェバにたどり着いた時、イサクに主なる神が現れて、冒頭の言葉を語られた。人々から斥けられ、孤独で厳しい生活を強いられるイサクにとって、神の祝福の言葉はどんなに大きな慰めであり、励ましであったであろう。
アビメレク王は争わない弱いイサクが追い詰められても窮せず、豊かに生きている姿に、神に祝福された人を見た。彼はイサクのもとに来て、互いに争わないという誓約を取り交わし、「安らかに去って行った」。神は徹底して争わないイサクを祝福されただけでなく、彼を神の祝福(平和)の担い手とされた。
第二次大戦の敗戦の月、8月、私たちは平和を願って、戦争の悲惨と愚かさを語り継ぐ。どんな大義名分があっても、武力や暴力で争うのは、人間の最も愚かな行為である。主イエスは「剣を取る者は、剣で滅びる」と言う。武力による威嚇や戦争はしないという誓いは、日常の生活において、暴力を使わない、これを決して容認しないという姿勢こそ大切である。何よりも神との平和(祝福)に身を置かなければ、争いはなくならない。主イエスは「わたしはあなたがたに平和を与える」と語り、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。平和を実現する人は幸いである。その人は神の子と呼ばれる」(ヨハネ20・21、マタイ5・9)と言われる。;;”272″